述語的同一視

長め.
アリエッティは,「あのインディアンは速く走る」,「牡鹿は速く走る」,「したがってあのインディアンは牡鹿である」というような推理をおこなう未開人の思考様式を「古論理的思考」となづけ,この思考様式は分裂病者特有の思考様式に類似しているものと考えた.この思考様式の特徴は,私たちの合理的思考が主語的個物の同一性に着目するのとはちがって,まず述語的属性(「速く走る」)に着目して,ここから主語的個物の同一(「あのインディアンは牡鹿である」)を帰結するという点にある.(木村敏『異常の構造』(講談社現代新書,1973)126-127)

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……,音のイメージを介しての言葉の連鎖は,表層言語に刻印された〈意味〉の崩壊のみならず,〈主体の壊乱〉の原因ともなることに注目したい.
音のイメージの媒介による連想は,異質なものを同一化してしまうが,これが特に述語にもとづく統合となるのが精神分裂病者の心的構造の典型だと言われている.フォン・ドマールスによれば,この論理は擬論理的(パラロジカル)であり,S.アリエッティの用語によれば古論理的(パレオロジカル)であって,後者は「ノーマルな人間は主語の同一性にもとづいてのみ同一性を受け入れるのに反して,古論理的思考を行なう精神分裂病者は,述語の同一性にもとづいて同一性を受け入れる」(『分裂病の解釈』)と定式化している.
たとえば「人は死ぬ」「犬は死ぬ」ゆえに「人は犬である」とか,自己臭に悩んでいる患者が,「私はクサイ」「犯人はクサイ」ゆえに「私は犯人である」というメタファーなのだ.(丸山圭三郎『言語と無意識』(講談社現代新書,1987)139-140)

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もしAが「あるインディアンは敏速である」ことを意味し,Bが「雄鹿は敏速である」ことを意味したとすると,AとBの交わる部分は,敏速さという共通の要素を表象しています.
そのことから錯論理的 paralogical な思考者にとって,「あるインディアンは雄鹿である」という結果が生じます.そして患者は,その結論が自分にそうするよう命令されているように行動するでしょう.…….
論理的思考と錯論理的思考との相違は,次のように述べられましょう.……論理的に考える者は単にバーバラの方式 Mode of Babara 【全称肯定命題のみからなる定言三段論法】か,その変法の一つを確実な結論の基礎として認めるのに反して,錯論理的な思考者は,似たような諸々の形容詞の本性にもとづいて同一性を結論するのです.この考えはヴィゴツキーによれば,次のように表現されたかもしれません.すなわち,論理的な者が同一の主語にもとづいてのみ同一性を認めるのに反して,錯論理的な者は同一の述語にもとづいて同一性をみとめると.
……
ヴィゴツキーは外言 esophasy と内言 endophasy に先行する思考と言語の相を,自己中心的 egocentric な相とする】.
自己中心的な言葉において内言 inner speach と外言 outer speech とはまだ分離されていません.内言は,主語-述語文によるよりも,むしろ述語による思考によって始まります.しかし,……,錯論理的な思考者は,自分が述語化できるものの同一性を見出すときには……主語が同一であるとするのです.
【錯論理的な思考は,子どものレベルにまで退行した言葉・思考だといえる.そして子どもの言葉と原始人の言語には共通性がある.それゆえ精神分裂病者の錯論理的な思考・言語は,本質的には原始人のそれなのだ】(フォン・ドマールス「精神分裂病における特殊な論理法則」)

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色々と疑問点はある.そもそも「現代」の心理学,(文化)人類学,論理学,言語学のそれぞれのフィールドにおける知見は,ドマールスのもちだす論拠をいまだに支持するだろうか.それでもなおこのようなアプローチには興味を感じる.