数学的嗜好(続)

限りの無い自然や宇宙全体を考えてみよう.そのとき,私たち人体はいわば一つの点である.一方,ダニや原子などを考えてみよう.このような,到達できないような微小な点からすれば,こんどは人体そのものが限りの無い全体となる.このような「無限と無限のふたつの深淵のあいだにあって,自然から与えられた大きさのなかでたえず自分をながめることで,人間はこれらふたつの驚異を目の当りにしておののくことだろう」.
パスカルはこの世界をマトリョーシカ人形のような,限りない入れ子構造をもつもの,いわばフラクタルとしてとらえている.

フラクタルとは無限の入れ子構造,もう少し数学的にいえば無限に自己相似となる数学的構造のことである.フラクタル的な構造は雪の結晶や海岸線,脳波,血管,葉脈などにみだされる.そのためにフラクタルは自然現象を理解するための普遍的概念の1つとなりうるのではないか,と期待された.

『パンセ』数学的思考(p.11,p.57)

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夢 友人のA(女性)に会う.Aは私のボーイフレンドから手紙をもらったという.私はボーイフレンドから手紙がこず心配していたので,私にこずAにくるはずがないと思う.しかし,Aは自分がもらうのが当然といった顔つきでいる.

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Aの性格については,何事についても自分と反対である.…….その言い方から察するに,Aの人生観,生き方については相当批判的な感じをもっているらしい.このような場合,夢に出てきたAを,この夢を見た人の影のイメージであるとユングは考える.

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その人によって生きられなかった半面,それがその人の影であるとユングは考える.つまり,この夢に出てきたAは,本人の生きられなかった半面をあらわしている.
(『影の現象学』pp.29-30)


フロイトの『夢判断』によれば,どんな夢も夢をみている本人自身を問題としている.「夢内容中に私の「私」ではなくて,ただ別の人間がひとり出てきた場合でも,私の「私」が同一化によってその人間の背後に隠れていると考えていい」「私の「私」が他の諸人物と相並んで出てくるような夢もある.これらの諸人物も,同一化の解消によってじつは私の「私」であったことがわかる.そういう場合,私はこの同一化の道を通じて私の「私」に,その受け容れを検閲が拒否したところの諸観念を結びつけてみなければならない」
「自分の「私」がある夢の中に幾度も出てくる,あるいは種々の形態において登場するということは,たとえば「私が何という健康な子供だったかということを,私が考えるとき」 Wenn ich daran denke, was für gesundes Kind ich war. というような文章におけるがごとく,意識的思考においても自分の「私」は幾度も,そしていろいろの箇所ないしは別々の関係において含まれていることと同様じつは決して怪しむに足りないのである」.
新潮文庫版,下巻,p.23).

フロイトの考えに沿って考えるならば,夢をみるとき,私たちは知らずして「私」のことを語っている.

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フロイト的な精神分析に染まっている私は,上記の夢における「手紙」をいわゆる「ファルス(≒ペニス)」として解釈するだろう.それは世界のなかでの私の立ち位置を定め,その立ち位置を指示するための指標である.

夢の主題が「私」であって,どのような人物(さらには在ったり不在だったりするもの)も「私」を示すというのであれば,夢をみている(そして,それを誰かに語る)人と,夢のなかの登場人物(たち)は,入れ子構造の関係にあるだろう.夢をみた私,私の夢のなかの私(たち),そして私たちのあいだを巡る「手紙」(私が何者であるかを示す記号).

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「欲動転換,とくに肛門愛の欲動転換」において「無意識の産物(思いつき,空想,症状)においては,糞便(金銭,贈り物),子供,ペニス」という三つの概念は区別しにくく,相互に混同されやすい印象を与える」と指摘される.日常生活の象徴言語においても,夢の象徴言語においても,「子供」と「ペニス」は共通のシンボル(ちび das Kleine,など)によって代用される.

「欲動とその運命」によれば,窃視欲動は初期の段階では自体愛的なものであり,対象を自己の身体に見いだす.そのとき,視る対象となるのは自分の「性器」である.そしてまた,「自分の性器を覗く」ことは「性器が自分によって覗かれる」こととイーコールである.それゆえ,この前段階の展開が,それぞれ「自分が他なる対象を覗く」(能動的な窃視症) / 「自分が対象となって他者に覗かれる」(露出症)となる.

フロイト精神分析を規定する決定的な主題(その胡散臭さも含めて)は,エディプス・コンプレックスである.エディプス・コンプレックスと絡みあうテーマとして語られるのが「去勢」である.「去勢」のテーマが示すことは,ファルスをめぐって定められる各々の立ち位置において,「私」が何か別のものとして在りえた(在りえる)ということである.

「手紙」という贈り物はボーイフレンドに対する「私」の立ち位置を決定するだろう.あるいはまた「手紙」をもらうのは「私」であるはずなのだから,「手紙」をもつAこそが「私」のあるべき姿かもしれない.いずれにせよ単なる「A」や「私」ではなく,「手紙」を具える「A」や「私」こそが問題であり,【中断】

窃視欲動の初期の段階,すなわち「自分の性器を覗く = 性器が自分によって覗かれる」という段階.この段階にあって「性器」とは何を意味しているのか.この段階にあって「性器」の意味を(人々がそれにどのような意味を付しているのかを)「自分」は知っているのだろうか.そしてこの「性器」は「自分」と置換されうる.さらに「覗くもの = 自分」あるいは「覗かれるもの = 性器( = 自分)」のポジションにはそれぞれ「他者」が代入されうる.ここに,さらに夢にあらわれるもの,夢みられるものは「私」であるという見解を接続しよう.夢をみるとき,夢主はいわば「他者」の立場で「私」をみている.夢みられている「私」はいわば「性器」のポジションに置かれているのであるが,そもそも「私」といい「性器」といい,人々がそれにどのような意味を付しているのかを「自分」は知っているのだろうか.

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夢では抑圧や検閲の力が弱まることによって無意識的な欲望が,日中に見聞きした物事の残滓の姿を借りてあらわれるという.「夢の原動力はいつでも例外なしに「充たされるべき願望」である」(下巻,p.289)が,「夢はまた,最近時的なものへの転移によって変化させられたところの,幼時期場面の代用物と見ることもできるだろう」(下巻,p.306).「意識的な願望は,それが同内容の無意識的願望を喚び起し,この無意識的願望によって自己強化を計りうる場合にのみ夢刺激者となる,と私は想定している」(下巻,p.314).その無意識的な願望,すなわち「夢の中に表現される願望は,幼児的願望でなければならない」(同前).

一方,「現在の脳科学の見解によれば,夢は脳の情報を整え,記憶を強化するために必須な過程であるとされています」.場所ニューロンは特定の場所だけで活動する海馬の神経細胞である.この神経細胞が活動していることは,自分がいまその場所にいることを認識していることと等価とされる.マックノートンという米国の心理学者はネズミの場所ニューロンを記録するなかで,起きているあいだに活動した場所ニューロンは,その後,レム睡眠時にふたたび活動をはじめることに注目した.そのネズミはいわば夢のなかでその場所のことを想い出しているのである.すなわち「最近経験したことを夢の中で再生」し,「夢を使って過去の記憶を反芻し整理している」のである(『記憶力を強くする』p.212)【参照:id:somamiti:20041217】.

海馬はパペッツの回路のユニットとして扁桃体とともに情動の発現にかかわる.情動と記憶の機能は密接にからみあっている.ヒトなどの哺乳類は,海馬などの部位の働きによって,パペッツあるいはヤコブレフのサーキットを巡るインパルスとして一時的に保存された即時的・短期的な記憶を,その情動価の大きさや頻度に応じて(すなわち個体がその環境において生きてゆくうえでの重要性に応じて)取捨選択し,関連の強いものはある見出しにまとめ(編集),そこから人生のエピソード(伝記)や辞書的な意味についての長期的な記憶として,おそらくは脳内の様々な部位の神経回路というアーカイブに分散的に保存しているのであろう.
――が,反芻されるその「記憶」は,どのような基準において取捨選択をされるのか.そしてまたどのようなインデックスに従って「整理」されるのか.
「私」という語を用いて世界の事物を把握しているヒトにあっては,この「私」という語(あるいは,その語によって誘発される神経ネットワークの状態)との関わりの強さが,記憶されるべき刺激の取捨選択の基準(すなわち刺激にともなう情動価)として,また記憶の整理の際にもちいられるインデックスとして比較的大きな重みづけをなすものであるように思う.
【そしてまた,その「私」が何者であるのか,ということは私にとっては完全に明晰判明というわけではない;「私」の意味づけは変動しうる.そして深い夢をみるとき,それこそ日記につけたり誰かに語りたくなる夢をみるとき,私は「私」の位置づけをめぐる混乱に巻き込まれているのであり,そしてその位置づけを定めるうえで,すなわち未整理な「記憶」や「情動」を片付けるうえで参照にされる状況が(その状況の1つが),わけのわからぬ「性器」なるもの位置づけをどうにか定めてみせた幼児期の(無意識の)エディプス・コンプレックス的な状況である.――精神分析の概念に依拠すれば,このように考えられるだろう】

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どこが‘数学的’やねん.