思想の彼方へ

はてなでブログを記しはじめたきっかけは疏水さんのとある文章に情念をかきたてられたことだった(関連:id:somamiti:20041019).
「彼方への疾走」には死のイメージがある.どこまでも駆けてゆくその姿はこちらの視界ではどんどん小さくなってやがて消えてゆく.
「死は人生のできごとではない.ひとは死を体験しない」「視野のうちに視野の限界は現われないように,生もまた,終わりをもたない」(論理哲学論考,6.4311).生きている以上,死ぬことはできない.
それなのに生きている私はすでに死ぬことを知っている.それは「わからない」と「わかる」との関係に似ている.私の内にいる私は私の外にある現実や他人の心を知ることはできない.そう考えていた.しかし「わからない」という判断が成立することがすでに「わかる」という判断を前提としている.それとおなじく生きている(死んではいない)というためにはすでに死んでいることがわかっていなければならない.「「私は生きている」という言表には,私の死 = 存在〔私が死んでいること〕が伴なうのであり,その言表の可能性には,私が死んでいるという可能性が必要なのである」(声と現象).
生が死を,此方がすでに彼方を,私は自らの視野に囲いこまれているのだからその外などわかりはしないという「わからない」が内と外との一致である「わかる」を,すでに基礎としたうえで成立している.彼方への疾走というイメージにひかれたのは,そんなことを知らずして考えていたからだろう.

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もとより現存在は「内面」として外部にたいして包装されているのではない,という.たとえば以下のようなお話がある:外界は存在するか否か,それは証明可能か.このような「実在性の問題」は不可能な問題だ.そもそも,こうした問いにおいて主題とされている存在者そのものが,そうした問題設定を拒絶するからだ.「「外界」が存在するということ,それがいかに存在するかということを証明することが必要なのではなく,世界 = 内 = 存在としての現存在が,「外界」をまず「認識論的」にほりくずして虚無化しておいて,あとであらためてそれを証明しようとする傾向をそなえているのはなぜなのかということを挙持することこそ必要なのである」.そんな問いのたてかたをするから,さしあたって確実にあるものとして「内面」を設定することになり,そうして「世界」との接着を模索することになるのだ(存在と時間).

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ですが,これはまた別のおはなし.
(おしまい)