精神という環境

環境のなかにいる私たちは環境を作り出しそれとかかわって生きている.精神もそんな環境の一つなのだろう.
人の心や言語や神,自由や魂の尊厳.そんなものは人の作り出した嘘っぱちかもしれない.幽霊かもしれない.よくよく見れば枯れ尾花.でも人の気持ちのわからぬやつは世間じゃとても生きてゆけない.心なんて脳のうみだすマボロシだとうそぶく人は,だとすれば脳の実在は信じているだろう.ひいては食べ物やナイフの実在を信じているだろう.そのリアリティの背景にあるのは食べ物やナイフにかんする体験,とりわけ空腹や痛みの体験,その積み重ねだろう.心が在るというのも同じことで,心にかかわる体験,他人や自分とのかかわりのなかでの喜怒哀楽や快苦の体験の積みかさねが心の実在を成立させる.他人の気持ちを無視してはとても生きてゆけない,人の気持ちのわからぬ奴は人ではない.そんな意見にリアリティをあたえる.

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科学的に物語るならこうも言えるだろう:他人の気持ちのわからない脳は進化の過程でおおむね淘汰されてきた.だから脳は心の存在をみとめざるをえない(書いていて少しアホらしい気分になるが).そして脳のそのような形質が発現するためには身の周りの環境に「他人」や「心」がなければならない*1.感受性期に適切な視覚刺激の与えられなかった(たとえば“暗闇”のなかで育った*2)視覚野では視覚情報の適切な処理ができない.それは“情報を喰って成長する”ニューロンおよびシナプスたちの“生存競争”と“淘汰”にもとづく組織構築のレベルでそうなのだ.敷衍して,同じことが「心」や「他人」を認識する能力についてもいえるだろう.人の気持ちのわかる個体として発達する;人の気持ちがわかるという形質が発現するためにはその個体の置かれた人間関係(とくに早期の母子関係)が重要だという説をあらためて唱えることもできるだろう*3.人は人の間に生まれ育つから人になる.「他人」や「心」の影響を無視してヒトの「心」を(さらには「心」の基盤としての「脳」)を,理解することはできない.

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*1:その「他人」や「心」というものだって一皮剥けば(物理化学的には)肉や物や分子や原子だったりするだろう.しかし,それは「他人」や「心」もまたそれらの物を基盤に成立しているということであって,だからといって「他人」や「心」なるモノゴトが消去されるわけではない

*2:どのような環境が“暗闇”となるかは,その個体や生物のプロパティによって異なるだろうけれども

*3:とはいえ人間関係という環境がたち現れるか否かは,あたらめてその個体の素質(感受性)によるともいえる