ありがちな話(2)

人づきあいが苦手.間が読めない.人と一緒にいて居心地がわるい.だから人のこころがわかりたい.人のこころがわかれば適切に身を処することができるだろう*1
人の心をわかる,とはどういうことか.人の心はどうなっているのか.人の心をわかることはできるのか.私にとって“人の心をわかる”とは,その人が私のことや周囲の状況をどのように考え感じているかがわかるということだった.それゆえ,人のこころをわかるという課題はモノゴトにかんするその人の認識を,認識を規定する解釈枠組みを知るという課題となった.
人づき合いや処世への苦手意識に端を発して,“人の心をわかることはできるのか”という問いは独我論への関心となり,釤人はものごとをどのように認識・解釈するのか”という問いは認識論への関心となった.

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他人のこころはわからない.それは不可能だ.そう割り切ることができれば楽だったかもしれない.独我論にたいする論駁があることをなまじ知ってしまったのがまずかった*2独我論めいた物言いで説かれる処世訓への嫌悪感もあった*3
私が思い描く「他人のこころ」には「私の思いこみに過ぎない」という疑いがどこまでもつきまとう.始末の悪いことにこの疑いは私が思い描く「私のこころ」にも適用される.そう思い悩むうちに私はすっかり何もかもわからなくなって,ひょんなことから私は離人症ではないかと思うようになった.それがきっかけで卒業論文では離人症をあつかった.その口頭試問での示唆*4にしたがってデカルトの「省察」を読んだ.これが哲学との馴れ初めだったようにおもう.そうして,「省察」で展開されるデカルトの懐疑を「欺くもの」と「私」と「私の認識(私の眼の前の世界)」の関係,あるいは「神」と「私」と「世界」の関係をめぐる思考のプロセスを記したものとして読んだ.「神」や「欺くもの」は完全あるいは力強く,疑いをもつ「私」は不完全でそれゆえに欺かれる.しかし欺かれる私が存在し疑いをもつことだけは確実だ*5.そして不完全な私が完全な「神」を知っているということは,私が世界を真に認識することの可能性を示す(関連:id:somamiti:20061107).

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自他の関係をどうみなすか,その関係において自己をどのように位置づけるか.このことが世界(自身も含めて)にたいする自らのスタンスをあらためて規定する.それによって自己も,それと不可分な他者や世界のありようも変容する.「省察」におけるデカルトの懐疑(とその解消)はその一つのケースとして読むことができるだろう.
独我論や心身問題や自由の問題において問われていることは自己と世界との関係だと考えることができるだろう.その文脈でなされる唯物論的発言――他人の心などない.あってもわからない.私のそれも含めて心は錯覚だ.精神など存在しない.すべては物質と物理法則により決定されている.自由なんて嘘っぱちだ――やそれにたいする応答――心はある,自由はある――は,自己と世界の,ひいては現在の自分とそれを決定する原因(他人や世間や物理法則)との関係にたいして自らがとるスタンスの立場表明であるだろう.

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夢分析』(ASIN:4004306531)という本はエディプス・コンプレックスの意義を受動から能動へとの転換と説く:なんらかの原因によって現在の自分は生み出され定められている.そんな受動的な立場にある自分を今度は原因の位置におく.それによって自らは自らのありようを定める能動者の立場にたつことになる.私は父を殺して母を娶る.そして母に子供を生んでもらう.そうして生み出された子供はすなわち私である.私は私を産む.*6
エディプス・コンプレックスを実際に子供がもっているのか,それはわからない.というよりもそんな話は眉唾ものだとおもう.しかしヒトは成長発達のどこかで上記のエディプス・コンプレックスに相当するプロセスをくぐりぬけて自らを自らの原因としてセッティングするようになる,という筋書きはありえる話だとおもう.たとえば「科学的にいえば物質や物理法則によってすべてが決まっています.未来はすでに決定されています.それが事実です.あなたはどうしますか」という問いに対して「それでも私は自分の意思によって行動する」という答えがしばしばなされること,むしろそうした答えが一般的であるらしいことは,その証拠の一つであるようにおもう.なお,現在の私を決定している原因の位置に物質が代入されるか,神が入るか,親の養育態度や社会環境や過去のトラウマがくるか,それは時と場合によるだろう.

現在の「私」を決定する原因にたいして「私」をあらためてどう位置づけるか.それには幾つかのパターンがあって,それらのパターンに応じて決まる「私」のスタンスが,私の認識や言動を規定している.世界や神や他人との関係における私の位置づけにはいくつかのパターンがあり,経験される物事にたいする解釈を規定するだろう.自己の評価や他者へ働きかけるときのスタンスを規定するだろう.
それらのパターンはいわば精神そのものの形式といえるだろう.それらは脳や神経には還元できない:(精神だとか心だとかいう解釈装置を捨象してなされる)脳や神経そのものの研究からは導き出すことはできない.

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以上が,現時点での考えである.今後この土台が揺らぐことはないだろう.

*1:今にしておもえば“人から嫌われたくない,人から好ましくおもわれたい,しかしそのための方法がわからない”というほどのことで,実践の問題を認識の問題にひっくるめてしまったのが迷走のもとだといえよう.

*2:ウィトゲンシュタインの「目の比喩」など

*3:深く考えすぎないほうがよい.しょせん人の本当の気持ちなんてわからないんだよ.そのような意見を述べる人は,そういいながらも自分じゃわかっているつもりでいて,そのうえで安穏としているようにみえた.適当でいいんだ.大体でいいんだといえるのは,少しでも「わかる」ことができてからのことであって,そもそも「わかる」ことが不可能であるなら,大体どころかホンの少しも「わかる」ことはできない.そう考えていた

*4:省察」で展開される懐疑はとても離人症的だ.これは離人症が近代的思考と不可分の関係にあることを示しているかもしれない

*5:疑うようにさせられているだけかもしれない.ということはさておき

*6:ここで,とって代わられるのが母ではなく父である点が興味深い.なおアリストテレスの「形而上学」では子の原因して父(の精子)が設定される.父の精子という始原(あるいは形相,モデル)が母の経血というマテリアルに作用することによって子が産出される.作用の主体である父は能動的に子を作成する.なお世界を産出する究極の能動者,究極の始原因は神として設定される(たしか,そんな話だったようにおもう)