方法的懐疑

デカルトの方法的懐疑,気になる箇所の抜書き.『世界の名著27 デカルト中央公論社

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私は考える,ゆえに私はある.その私とは考えるものである.このことだけは疑いえない(それにたいする私の懐疑そのものが,その正しさを示すことになる).この“アルキメデスの点”を得る過程で,デカルトは私のあらゆる認識を疑う.神や世界,物体や他人,自らの精神や肉体,これらについて私がもつ認識はすべて偽かもしれない.そうしたものが在ると私は思っているけれどもそれはただ騙されているだけかもしれない.
そこでデカルトはいう.私は何かによって欺かれているかもしれない.しかし欺かれているならやはり私は存在する.それさえも虚偽なのではないか;欺くものなど存在しないし欺かれる私も存在しない,そう私は疑ってみよう.とすれば,私は疑っている.疑うことは認識することにくらべて不完全だ.ところで,完全なものといえばその最たるものである神を私は思い描くことができる.完全なものとしての神の観念は疑いをもつ不完全な私からは出てこないはずだ.ゆえに私からは神(神についての観念)が得られることはない.一方で私は神についての観念を得ているのだから,その観念をあたえた神は存在するのだ.
神は存在する.完全な神は疑うことも欺くこともないだろう.そしてその神は私を欺くことはない.私の感覚や判断が誤る(何かによって欺かれる)ことはひとえに私の不完全さによる.それゆえ逆に疑いの余地のない明晰判明な認識は正しいことになる.明晰判明な認識のとおりに世界は存在する.それは神(神の観念をもつこと)によって保証される.

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▼「第二省察」『省察

たとえば私がつねに何者かによって欺かれているとしよう.見るものは偽り.記憶も偽り.感じるものは幻影.それでは「確実なものはなにもない」のか.そうではない.確実なものはないという考えをもつのなら,そう考える私は何ものかである.とすれば私はたしかに存在する.
それも欺かれているだけかもしれない.それでも欺かれている私は存在する.

いま,だれか知らぬが,きわめて有能で,きわめて狡猾な欺き手がいて,策をこらし,いつも私を欺いている.それでも,彼が私を欺くのなら,疑いもなく,やはり私は存在するのである.欺くのならば,力の限り欺くがよい.しかし,私がみずからを何ものかであると考えている間は,けして彼は私を何ものでもないようにすることはできないであろう.
But there is I know not what being, who is possessed at once of the highest power and the deepest cunning, who is constantly employing all his ingenuity in deceiving me. Doubtless, then, I exist, since I am deceived; and, let him deceive me as he may, he can never bring it about that I am nothing, so long as I shall be conscious that I am something.
Sed est deceptor nescio quis, summe potens, summe callidus, qui de industriâ me semper fallit. Haud dubie igitur ego etiam sum, si me fallit; & fallat quantum potest, nunquam tamen efficiet, ut nihil sim quamdiu me aliquid esse cogitabo. )

そして私が私とは何ものかであると考えているあいだは,欺き手も私を「ない」ものにはできない.それゆえ「「私はある,私は存在する」というこの命題は,私がこれをいいあらわすたびごとに,あるいは,精神によってとらえられるたびごとに,必然的に真である」.
では「私はある,私は存在する」として,それではその「私」とは何ものか.私が私について体験し思いえがくことは嘘かもしれない.夢かもしれない.しかしいくら疑っても,そう疑っていること,そう考えていることだけは私から切り離すことができない.

私はある.私は存在する.これは確かである.だが,どれだけの間か,もちろん,私が考える間である.なぜなら,もし私が考えることをすっかりやめてしまうならば,おそらくその瞬間に私は,存在することをまったくやめてしまうことになるであろうから.
I am--I exist: this is certain; but how often? As often as I think; for perhaps it would even happen, if I should wholly cease to think, that I should at the same time altogether cease to be.
(Ego sum, ego existo; certum est. Quandiu autem? Nempe quandiu cogito; nam forte etiam fieri posset, si cessarem ab omni cogitatione, ut illico totus esse desinerem.)

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▼『方法序説

つづいて私は,私が疑っているということ,したがって私の存在はあらゆる点で完全なのではないということを反省し,私は私自身より完全な何ものかを考えることをいったいどこから学んだのであるか,を探究することに向かった.…….私は私のもたないいくつかの完全性を知っているのであるから,私は現存する exister 唯一の存在者ではなく,私がそれに依存し,私が私がもっているものを,それから得たところの,他のいっそう完全な存在者が,どうしてもなければならない.

神やみずからの精神なるものが現に存することに確信がもてないという人々もいる.そうした人々は身体や地球や星といったものがあることのほうが確実だと考えているだろう.しかしむしろ,身体なり物体なりが実在するという判断のほうが不確実なのだ.たとえばそれは夢かもしれない.

夢に現われる思想のほうがしばしば他の思想より力強くはっきりしていることがある以上,夢の思想の方が他より偽であると,どうして確かに知りうるのであろうか.私は思う,最もすぐれた精神をもつ人々が,どんなにこのことを詮索しても,もし彼らが神の存在を前提するのでなければ,この疑いを除く十分な理由を示すことはできぬであろう.なぜならば,まず第一に,われわれがきわめて明晰に判明し理解するところのものはすべて真である,ということすらも,神があり現存するということ,神が完全な存在者であること,および,われわれのうちにあるすべては神に由来しているということ,のゆえにのみ,確実なのである.

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「私が疑っている」ということから私が「完全ではない」ということが導かれる.それは「疑うよりも認識することのほうが,より大なる完全性であることを,私は明晰に見るから」だ.この「疑い」と「認識」とをそれぞれ「わからない」と「わかる」とに置き換えると理解しやすいようにおもう.
夢かもしれない.嘘かもしれない.欺かれているだけ,そう思いこんでいるだけ.なにもかもが「わからない」.しかし,なぜそう疑うことができるのか.
何かが「わからない」という状態は何かが「わかる」という状態との比較によってはじめて成立する.それゆえ「わからない」は「わかる」ことから導かれる.その逆ではない(だから「わかる」ことのほうが「より大なる完全性である」).私が現に「わからない」と疑っているのであれば,私は「わかる」ということをすでに知っている(わかっている)ことになる.でなければ「わからない」と疑うことがそもそもできない【それでは「私は「わからない」」という私の認識(判断,疑い)は偽りなのだろうか(と私は疑う).真か(本当に私は「わからない」),偽か(実は私は「わかって」いる),真・偽いずれでもない(「わかる」か「わからない」のかが「わからない」)のか,いずれの答えを選ぶにせよ,どこかで私は「わかる」ことを知っていることになる】.
私が現に「わからない」と考える(自らの認識が偽りでないかと疑う)とき,私は何かを「わかる」ことがすでにできている(真なる認識とはいかなるものかをすでに会得している).私がすでに得ていた真なる認識において,認識された何かは確実なものである(そこで認識される何かは偽りではない;私の思いこみや夢などではありえない);私の思いこみや夢のそとの何かは存在する.そして私はその何かを認識する能力をもつ.
( → id:somamiti:20051210)

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何かにたいする疑いがすでにその何かを前提にしている.