ありがちな話

これまで自らの興味関心を心身問題(心脳問題)と位置づけて読書メモをとってきた.おおむね整理はついたとおもう(cf.id:somamiti:20061102).とはいえ気になる点も少しある.“心と物とのかかわりを考える”というけれどもこの「心」という語で私は何を指していたのか.

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精神はその形式をもつ.精神にはパターンがある.そう述べるとき私が思いえがいているのはゲームや小説・マンガにみられるパターンのようだ.とりわけイヤボーンの法則*1セカイ系*2などのパターン.
それらのパターンを備えた対象はアニメやゲームにとどまらないと思われた.たとえば自分さがしやトラウマ語り,“多重人格”や“人格障害”の体験告白やルポタージュ,症例報告など.そこに記された言動には泣きゲーやセカイ系に似た形式があるような印象をうけた.

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私が耽溺してきたTRPGには「かわいそうな女の子」がたびたびあらわれた.女の子はトラウマと力とをもっていた.トラウマと力とは表裏一体で,女の子はトラウマによって力を獲得し,and/or 力ゆえにトラウマを負っていた(世界から迫害され,あるいは搾取されることによって).「かわいそうな女の子」を救わねばならない.それは私たちの欲望であり義務であった.そのためにもっとも有効な手段は「彼女の力の有る無しにかかわりなく彼女そのものの存在を受容すること」だった.私たちは彼女を懸命に受容しようとする.そして私たちの受容は世界や女の子自身によって試された.まるで教科書にある心理療法のようだった.とりわけ境界例人格障害の治療のようだとおもった*3
かわいそうな女の子をめぐるお話は幾度も繰りかえし繰りかえされ,やがてこれは一つのパターンなんだと私は得心した.眼の前の女の子がどこの誰でどんな体験をしてきたのか.そんなことは本質ではないのだ.愛してください,ちゃんと見ていてください.私の価値を無条件に認めてください.そこにあるのはただ一つの叫びだった.顔のない彼女を巡る果てしないロンドを私たちはプレイしていた*4.そして,そんな私たちもどうやら互いに似通っているらしい.ここから,物語には形式があり,そうした物語に深くコミットする精神はそれに対応する形式を具えているのだという発想を得た.そこには当然,幾冊かのオタク系サブカル評論の影響もあったはずだ*5

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上で述べてきたような形式(パターン)は,自己の位置づけ,とりわけ「世界」や「他者」との関係にかかわるものだといえよう.いわゆるアイデンティティにかかわる悩みというやつだろう.思春期から青年期にかけての私がそのような果てしなく青いテーマをもつ娯楽へと深く耽溺したことは,ありがちなことの成りゆきといえる.

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高校を卒業するまで人生は他人事だった.社会に出て生きてゆけるとはおもわなかったので予備校にかよい,大学にもぐりこんだ.そののちも社会において他人とかかわって生きてゆくことは極力避けたいとおもっていた.世間や他人と面と向き合ってつきあう代わりに小説やマンガ,ゲームのキャラクターに依って生きていた.だからアイデンティティの悩みだとか自己と他者の関係がどうだとか,そんな“青年期にありがちな悩み”を意識することはほとんどなかった.ただ今にしておもえば,自らのこととして意識することを避けていたからこそ援助交際やらオタク論,さらには精神病理学や臨床心理学といった分野に熱心な関心をむけていたのだろう
ここ2年ほど心身問題や哲学に入れこんでいたことも,その延長にあるだろう.関連文献を読むなかでマーキングしてきた箇所がそれを示しているようにおもう.
(つづく?)

*1:サルでも描けるまんが教室』によって提唱されたエスパーまんがにおける法則。いたいけな美少女がピンチに陥りイヤァアア!と叫ぶと少女に眠っていた「力」が目覚めて敵の頭がボーンと破裂し、美少女は危機を脱する。この表現により、いたいけな美少女が実はエスパーであったと視覚的に理解される.この法則を広く捉えるならば……主人公などのメインキャラが都合のよい覚醒をして一気にピンチを覆すとき、イヤボーンの法則が働いているといえる(Wikipediaイヤボーンの法則」).ある知人は「力」の覚醒にあたる現象を「リミッターオフ」と称した.リミッターオフ現象はイヤボーンの法則にしたがって生じるといえよう.

*2:セカイ系泣きゲー,TRPGといったオタク系サブカルめいた用語は『ウィキペディア』でとても詳しく解説されているようだ

*3:時おり奇妙な印象を受けた.彼女たちは受容を欲している一方で実のところ受容を欲してはいない――私たちフツーの人々と同様に生きることは欲していないようにおもわれた.おそらくトラウマと力とが表裏一体であることによるだろう.トラウマも力も無くなればもはや彼女はヒロインではない

*4:そして時はすぎ,やがて私たちのひとりひとりがトラウマと力とを具えるようになった.「かわいそうな女の子」は特権的な位置づけを喪失し(私たちに媚びることのない「わるい子」は救済に値しない),いつしか私たち一人一人が「かわいそうな女の子」として遇されるようになっていた.「かわいそうな女の子」はもはやあたりまえの女の子なのだから,力や有能さや可愛げのないかわいそうな女の子はあたりまえに遇してはもらえない.それがあたりまえになった.

*5:大澤真幸『電子メディア論』『恋愛の不可能性について』,斎藤環戦闘美少女の精神分析』,宮台真司援助交際論や桜井亜美の小説など.のちには大塚英志『少女民俗学』『キャラクター小説の作り方』『物語消費論』,東浩紀動物化するポストモダン』,斎藤美奈子『紅一点論』といったあたり.それにしても『贖いの聖者』の後半は大塚英志が書いたとしかおもえない