バベルの図書館(第二階)

「バベルの図書館」は「不定数の,おそらく無限数の回廊で成り立っている」という広大なもので,「永遠を超えて存在」し,その書棚には「おなじ本は2冊ない」.一方,あらゆる本は「行間,ピリオド,コンマ,アルファベットの二十五字」という構成要素から成立する.ゆえに「図書館は全体的なもので,その書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ――その数はきわめて厖大であるが無限ではない――を,換言すれば,あらゆる言語で表現可能なもののいっさいを含んでいる」と推論される(参照:id:somamiti:20050131).しかし――
「しかし、このようなバベルの図書館は実は不可能である。それは無限冊の本が実在することが不可能だから、というのではなく、たとえ無限冊の本が実際に所蔵されていても、その無限冊が、可能なすべての本を網羅することはできないのだ。そこから洩れている本(文字列)が必ずあるのだ』(『論理パラドクス』(p.37).そしてその証明として,対角線論法の応用により「無限冊の本」を「全部並べた」うえで,「全部並べた」本のなかには含まれていない本【並べられた任意の本にたいして,少なくとも1箇所の文字が異なっている文字列 = 本】を構成してみせる.すなわち「無限冊の本を所蔵していたとしても、あらゆる文字の組み合わせの本を網羅した図書館というのは、論理的にありえない」のである.

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この論証に関して少し引っかかる点がある.対角線論法を応用したこの論が有効であるためには,バベルの図書館の「無限冊」の本を‘全部並べる’必要がある,という点である.バベルの図書館に実際に無限冊の本が所蔵されていると想定することは,実無限――‘無限のものがある’という立場――の想定であり,一方,「可能なすべての本」を網羅する試みについての想定は,可能無限――無限は可能性としてのみ考えられる――の立場からの想定であるように感じられる.【実無限の立場からは,線分は無限個の点を含むというのは,有限の長さの線分にすでに無限個の点が存在しているということである.一方,可能無限の立場からは,線分は無限個の点を含むというのは線分を切断する切断点として,点を限りなく(無限に)取りだしてゆくことができる(その可能性こそが無限である)こととなる】.
カントール自然数と実数にたいして対角線論法を用いることにより,自然数よりも実数の方が濃度が大きいことを証明する【たとえば,自然数の集合と開区間(0,1)の実数の集合の濃度が等しいと仮定した場合,仮定からすれば(0,1)区間の実数は,自然数によって番号づけすることで全て挙げつくされる(集合の要素間の1対1対応が成立する)はずであるが,対角線論法を用いることで,未だ番号づけのされていない実数を新たに構成することができる).この証明にたいして可能無限の立場からは以下のような見解がある:「(自然数を全て書き出すことができるというのが,そもそも実無限の想定である.可能無限の立場からすれば,自然数の個数は可能的に無限なのであって)つまり自然数を書き尽くすことはできない。それに歩調を合わせて、実数も書き尽くすことはできない。書き尽くすことのできないものをあたかも一望のもとにして、一対一対応ができたとすると仮定するのは、そこに潜む実無限の想定がおかしいのであって、実数の方が濃度が大きいからではない」(『無限論の教室 (講談社現代新書)』pp.76-77)
【なお『論理パラドクス』の論証は,バベルの図書館を‘有限冊ないし無限冊の蔵書を所蔵する図書館’として明確に規定することで初めて成立するものであるように感じる】【その仮定があるからこそ「あらゆる文字の組み含わせの本を網羅した図書館というのは、論理的にありえない」という結論が成り立つように感じる】【「あらゆる言語で表現可能なもののいっさい」が図書館の蔵書として既に記述され尽くされている――と仮定することは矛盾をひきおこす.仮に所蔵冊数を(実無限的)無限としても,それが‘個々の本’であるかぎり,図書館の蔵書(そして,そこに記されている文字たち)はナンバリング可能,すなわち高々可付番である.そして「あらゆる言語で表現可能なもののいっさい」(可能無限的無限)の‘集合(あるいは領域)’の濃度は,高々可付番な集合(有限集合,あるいは自然数全体の集合と等しい濃度の集合)よりも大きい.――バベルの図書館に関する論証をムツカシイ言葉で表現すれば,このようになるだろう】

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対角線論法は,いわば自然数から‘新しい実数’を次々と構成して行くための方法であるように感じられる【という話をどこかでみたようにおもう】.

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ライプニッツの着想の端緒となったものは、すぺてのことばがアルファベットの結合から成りたっているように、もし人類の思想のアルファベットを見いだすことができれば、それのあらゆる可能的な結合によって人類のいっさいの思想が導きだせるはずであるという構想である。あらゆる可能的な結合の中には、既知の知識がふくまれているだけでなく、未知の知識がふくまれ、したがって未知の真理の発見の方法にもなるであろう。それによって、人類の全知識が組織的に構成されることになる――」(下村寅太郎スピノザライプニッツ」『世界の名著30』).『バベルの図書館』の発想は,‘無限冊の本がもしあったとすれば’という想定よりも,むしろ「二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ――その数はきわめて厖大であるが無限ではない」という着想のほうにポイントがあり,それは上記のライプニッツの構想と通底する性質のものであるようにおもう.

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ナイーブに表現するならば‘あらゆるものごとはすでに決定されているのだろうか’といった危惧【あるいは,一者とそこからの流出としての世界】.