公理系としての数学

「飛ぶ矢は飛ばない」.このパラドクスもまた「重ね描き」により解消されるだろう.飛ぶ矢の軌跡に重ねあわせて直線を思い描く.そこから無数の点を取り出す(切り出す)ことができるだろう.数学における実数は,そもそもそのように構成される.しかし軌跡として思い描かれた密画の任意の断端において‘矢が飛ばない’こと,略画において飛ぶ矢が飛ぶこと.そのことはなんら矛盾はしない;それらはじつは同じものなのだ.【そのように大森はいうだろう】【線(数直線)の切断による点(実数)の構成を連想する】

  • -

‘公理系としての幾何学(数学)には「時間」が全くない’という指摘にかんして.
公理系においては初期設定としての定理および演算規則により全ての出力(その公理系における論理的に真なる命題)が一義的に(それ以外にはありえないというかたちで)導びかれる.それは,たとえるなら「神」の認識に似ている:
「われわれが造物主としての神に帰するいわゆる絶対的認識に比べて,純粋数学の認識がもっているただ一つの欠陥といえば,(神はすべてを一挙に認識するのに対して)数学的認識はつねに絶対的に明証的であるが,空間時間的形式のうちに,形態として「存在する」すべてのものを認識し,それを顕在的な数学として認識するのに,体系的な進行を必要とするという点だけである」(『危機』第九節).

  • -

大森は公理系としての数学(幾何学)をみるみかたを批判する;大森の「重ね描き」論【ひいては「密画」としての科学的世界観という提案】は現代の数学(幾何学)観への批判のうえに成立する.幾何学についての現代の標準的な解釈は以下のようなものである(「幾何学と運動」『時間と存在』.文章は適当に変更):

線や点などの名辞,「線上にある」「2線が交わる」といった基本述語,これらはあらかじめ何の意味もあたえられていない未定義な概念である【べつに「点」「線上にある」のかわりに「ビール」「ジョッキに入っている」としてもよい】.これらの未定義概念のあいだに成立する関係を段階的に枚挙していったのがたとえばヒルベルトによるユークリッド幾何学の公理系である.
この公理系により未定義概念にいわば構文論的(シンタックス)な意味があたえられる.それにより無数の定理が厳密に論理的に成立する.
ユークリッド幾何学は純粋記号体系である.それゆえ純粋記号にして未定義語である線や点にはすきな定義を与えることができる.そこであらためて,「直線」にはピンと張った糸,「点」には糸と糸の交わりといった経験的定義をあたえて経験的に幾何学を構成する.この経験幾何学においては公理や定理は厳密には成立しない.その成立は測量器具などによる実測によって確かめるしかない.
たとえばわれわれの生活空間では純粋記号体系としてのユークリッド幾何学による経験幾何学がほぼ近似的に成立する.しかし宇宙空間の恒星を頂点にした巨大な三角形では内角の和は2直角ないしそれに近い値にはならない.そこではむしろ非ユークリッド幾何学に経験的定義をあたえた経験幾何学が近似的に成立する.


大森はこの標準的解釈そのものを批判する.ユークリッド時代の人々や現代のわれわれは,普通,幾何学を純粋記号体系とは考えない.たとえば経験幾何学において「直線」に「張り糸」という解釈を与えるのは,その糸が「近似的に直線にみえる」からそうする.このとき,「直線」がなにかということがあらかじめ了解されているはずだ.そのときの了解に「幅のない線」ということも含まれているなら,それはわれわれがユークリッド幾何学を理解するときに線や点を「幅のない線として了解している」ことを示している.
それにたいして大森は「重ね描き解釈」を提案する.幅のない線や拡がりのない点は「思考する」ことはできても「知覚する」ことはできない.われわれは白墨で描かれた線,紙のうえの鉛筆の線,タンスの縁などの多少なりとも「幅のある線」に「沿って」思っている:知覚可能な線や点の上に重ねて知覚不可能な幅のない線や拡がりのない点を思い描いている.すなわち
「誰もが知覚可能な図形や形態の上に重ねて幾何学の図形を思い描く,それがわれわれが幾何学を了解する仕方」であり幾何学と経験との「重ね描き」である(p.54).
このとき幾何学の諸定理は経験的事物の上に「重なって」成立している.諸定理と「重なっている」ものにかんする経験的実測は,それらの諸定理に収斂する.それゆえ実測において幾何学の諸定理が近似的に成立するのである.

  • -

大森のフッサール批判は,この標準的解釈批判の延長線上にある.大森は以下のようにいう:
幾何学がなりたつのは経験的な生活空間とは「別の」「純粋に形式的な幾何空間とでもいうべき空間」であり,その純粋幾何空間で成立する幾何学が,経験による解釈づけによって生活世界にいわば適用されるという数学観がある.これは誤解である.この誤解につながる素地のみえる考え方として,たとえばフッサールによる数学における「理念化」の強調がある.
しかし幾何学が成立するのは「形式的な記号体系」でもなければ幾何学のために「わざわざ仕立てられた特別あつらえの空間」ではない.私たちが生きている生活空間においてなりたつのだ.この生活空間に幾何学者がさまざまな図形を思い描く.それらの図形について成立する無数の命題を演繹的に整理・再構成した公理系が幾何学なのである.

                                    • -