点時刻の病理

では,飛ぶ矢のパラドクスについて大森はどう考えるか.大森はそこに「点時刻の病理」をみいだす.たとえば数直線としての‘時間軸’を描くとき人は時間をリニアーなものとして思い描く.そのような線形時間の「時刻」の概念には「点時刻」の概念がふくまれる.点時刻とは持続がゼロの時刻である.飛ぶ矢のパラドクス(およびアキレスと亀のパラドクス)は点時刻の概念のもたらす困難をしめす.
そもそも持続ゼロの点時刻における物の存在や状態を考えること,思い描くことはできない.点時刻における物の存在や物の状態は思考不可能,すなわち無意味である.なのに飛ぶ矢のパラドクスはそうしたことを前提として語っている;点時刻に矢が存在する/しない,静止している/動いている,というのはすべて無意味なのだ.それゆえ飛ぶ矢のパラドクスについての議論すべてが無意味な命題のつみ重ねであり,有意味な議論とはならない.
飛ぶ矢のパラドクスは点時刻に,アキレスと亀のパラドクスは幾何学的点に,それぞれ拡がりがないとする「定義」による.

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なお現代科学はあらゆる物理量を線形時間tの関数として表現する.仮に点時刻における物の存在と状態が無意味だとすれば現代科学は無意味な表現のうえに建てられているのだろうか.
そうではない.たとえば科学者は惑星の公転運動を表現するときには太陽点を中心とする楕円軌道を描いて惑星点の運動とする.しかしながらその楕円は運動の軌跡を表示するだけで運動そのものを表現しない.楕円上の惑星点の運動について,科学はただ口頭で「その上を動く」といってあとはそれを数学化するのである.

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