運動感覚と「わたし」

飛ぶ矢のパラドクスはまた感覚的質の捨象,ひいては公理系としての数学化・理念化が「運動性の」知覚/記憶とは切れたものとなる困難との関連において,ひとつのアナロジーとして参照されたことだったようにおもう.
この運動性の知覚ないし記憶(あるいは感覚)にかんしてフッサールは,運動における「わたしがなす」という感覚を重視する.知覚システムすなわち「……の呈示」のシステムと相関した運動感覚的プロセス,それらのプロセスの自己の身体への「帰属」することにおいて;運動感覚とともに経過する多様な「呈示」において,そこには隠された‘if-then’がある.(もし)私が動く,(ならば)私の見る世界はそれに応じて変化する(だろう).こうして先どられた運動と知覚の系列が調和していることが,私にたいして現前する物が存在するという確信の背景にある【噛ってみればシャリシャリして甘酸っぱい(という予期と調和する)からこのリンゴは確かにある,と確信する.いくら甘酸っぱかろうが,リンゴガムをクチャクチャ噛んでいるそのときリンゴが口中に在るとは思えまい】(『危機』第28節,第47節)【なおこの運動感覚と「わたし」との問題系の延長線上に,フッサール他我問題をみる】.

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この運動感覚と「わたし」との問題系について,大森は以下のように述べている(参考「意識の虚構から「脳」の虚構へ」『時間と存在』,など).
「私が歩く」「彼が走る」「彼等が食べる」「あいつがでかける」といった動作表現の主語は,その表現から独立に切り離して知覚的に描写することはできない;動作主語はあくまで動作述語をともなって文となるときに,特定の動作を経験的に知覚可能なものとして描写する.
「直接独立には指示できないが文中では完全な経験描写となるもの」はいわば「語り存在」である.たとえば自然数がそれである.2個のリンゴは知覚的に,経験されるものとして描写できる.リンゴを伴わない「2」はそうではない.それゆえ「2」は「語り存在」である.
そして「私」や「彼」などの動作主体もまた語り存在である:「動作主体としての自我の意味は,他の代名詞群との共働生成とのなかで比較的容易に制作される」「自我概念はまず他の人称代名詞や人名と共に動作描写において語り存在の身分を獲得する.そしてそれは一人称主語として孤立的に獲得するのではなくて,他の代名詞や人名主語との類比や交換もそのなかで理解されてゆくだろう.こうして集団的に描写が理解されることで,自我の意味制作は一段と容易になり,わずか2歳の幼児が楽々なしとげているのを多くの人が見てきているだろう」.

【そしてソマミチとしては,大森さんの考え方のほうに親しみをおぼえます】【もっともフッサールの文章は,いろいろと新鮮な指摘もあり,そのうえ気持ちを逆撫でしてくるので読んでいて刺激的です】【あらためて考えると,運動感覚と「わたし」についての両者の考えは両立することのように感じる】

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つづく.

【とはいえ,こうした排泄物的【≒排-他-的(排他=ノエシス,排泄物=ノエマ[冗談])】にマジメな話は本日かぎりの出血ハラキリショーです.多分】