犬の幾何学(3)

「現在」の私-たちは「相対論」によって立つ.ここで「相対論」を再帰的に;今現在の私たち自身に向かって適用しよう.…….このように,「相対論」についての真/偽,いずれの仮定をおいても,そこから仮定に反する帰結が導かれるのである.私-たちの「相対論」そのものは真なる命題とも偽なる命題とも分類できない.つまり「わからない」.…….
(中略)
さて,「現在(時点0,その近傍)」と「過去(時点−1,その近傍)」を並べたうえでバッサリ「わからない」と切って捨てる【「分からない」と「分かる」】視点はどの時点に設置されていただろうか.それはもちろん「未来(時点1,その近傍)」である.…….「現在」と「過去」との関数は「未来」と「現在」との関数と等しい.これらの関数に再びたち帰ることにより,あらたに関数を構成することを考えよう.……
(『犬の幾何学』)

この数日間の考えごとを契機としてつながったノートカードから.かなり私的なメモですが,興味がおありでしたら.

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「時間の流れもひどくおかしい.時間がばらばらになってしまって,ちっとも先へすすんでいかない.てんでばらばらでつながりのない無数の今が,今,今,今,今,と無茶苦茶に出てくるだけで,なんの規則もまとまりもない.私の自分というのも時間といっしょで,瞬間ごとに違った自分が,なんの規則もなくてんでばらばらに出ては消えてしまうだけで,今の自分と前の自分とのあいだになんのつながりもない」(木村敏離人症の精神病理」『自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学』)

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時間性の本質は、これらの脱自態の統一において時熟することにある。これに対して、通俗的了解がとらえうる《時間》の特徴は、とりわけその時間が純粋な無始無終の今の連続であって,そこで時間性の脱自的性格が平板化されているという点にあるのである。(下巻,p.218) / 今の系列には、とぎれも欠け目もない。今を《分割》して《どこまで進んで》いってもそれは依然として「今」である。人びとはこうした時間の切れ目なさを,分解不可能な客体的存在者の地平の中でみている。人びとは、恒常的な客体的存在者を存在論的な標準にして、そこに時間の連続性の問題を求め、あるいはここにアポリアを残しておく。こういう見方をとれば、世界時間に特有な構造、すなわち脱自性にもとづく日付け可能性や、それにともなう緊張性は、蔽いかくされざるをえない。(下巻,p.399-400)(『存在と時間』(ちくま学芸文庫版))

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時間性 Zeitlichkeit:《雅》現世,俗界 / (哲)時間性 ← zeitlich:時間の,時間的な,日程上の / 現世の,うたかたの,はかない.
時間性 Zeitlichkeit はそもそも《脱自 Ausser-sich(自らの外にむかう)》である.いわゆる‘現在,過去,未来’などは時間性の脱自態 Ekstase【自らの外に立ちいでるようなありかた】である.時間性は,これらの脱自態の統一において時熟する sich zeitigen ことに本質がある.

※sich zeitigen : sich = 自ら(に,を),zeitigen = vt(努力などが成果を)もたらす,招来する / vi 《オーストリア》(果実が)熟する,うれる).【時間 Zeit】

それにたいして,おおくの人が思い描いている《時間》は,その時間が始まりも終わりもない「今」の連続であって,その時間性の脱自的性格が平板化されているという点にある.

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ハイデガーがここで言おうとしていることは以下のことだ:ノエシス的自発性【〜〜を考える,という自発性】はみずからの産出するノエマ的自己【思い描かれたところの〈わたし〉】によって触発されて,ノエシス的自己【考える私】として自己自身を限定する.わたしたちにとって時間という体験が可能になるのは,わたしたちのあり方がこのようにして差異の自己限定という構造をもっているからだ.
この構造において,ノエシス的差異【〜〜を考える,ということに含まれる,主体-作用-対象という区別】は自己自身を差異化してノエマ的客体【思い描かれたオブジェクト】を「自分自身に向けて対置する auf sich zu-halten」.
それによって差異は自分自身にかかわる関係となり,「自分自身へと到来する auf sich zu-kommen」.この自分自身への到来の内的な動きが,時間とよばれる事態の源泉なのだ.(木村敏「時間と自己・差異と同一性」『自己・あいだ・時間』)

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ここまで.お疲れさまでした.