痛み

先日,ペインクリニックや痛覚の生理学的機序に関するいくつかの講義をきいた.本日の日記はそれに関して.

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「痛み」はたとえば以下のように定義される:「痛み」とは「現有する組織損傷を伴った,あるいはそのような経験から表現された不快な感覚,あるいはそのような情動経験である」 "Pain" is "an unpleasant sensory and emotional experience associated with actual or potential tissue damage or described in terms of such damage, or both" (国際疼痛学会 Innternational Association for the Study of Pain (IASP),1979年の定義.引用は講義プリントより).
この定義についての講義での解説,とくに‘actual or potential tissue damage’にかかわる解説がとくに印象にのこった:この箇所はまた「組織の実質的あるいは潜在的な傷害」と訳されることもある.この一見迂遠な定義において想定されているのは「幻肢痛」のような「痛み」である.たとえば肘のところで腕を切断された人が指先の「痛み」を訴える.そのとき,その人の‘指先’に actual な組織損傷があるわけではない.しかしながら,その人には‘かつて経験した指先の組織損傷’が potential なものとしてある.そして,そのかつての組織損傷【その記憶】と結びつけられ,あるいはそのような出来事【痛み】として記述される不快な感覚ないし情動体験が,すなわち痛みなのである【この定義は,関連痛,たとえば狭心症発作において左肩から左上肢の皮膚に痛みが放散する(放散痛 radiating pain)といった現象も含むことができるでしょう】

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講義を聞きながら連想していたのはメルロ = ポンティによる幻影肢の考察である(『哲学マップ』pp.164-170参照)

:わたしたちはまず「身体」である.身体は世界を生きるうえでの原点であり,わたしたちの身体は世界における状況に意識に先だって反応している(たとえば,目の前にボールが飛んでくればひとりでに手が出るように).その動きはすでに身についた身体についての知,すなわち「身体図式」による.「自転車の乗り方など,すでに身についた動き方(「身体図式」)は習慣としてわたしの身体に沈殿し,さらに,あらたな習慣を身につけることによって,わたしの身体図式は更新される」.
「幻影肢」という症状がある.ないはずの手足の痒みや痛みなどがいつまでもぬけない.しかし「頭で」は手足がすでに無いことは知っている.そして幻影肢の感覚は腕や脚の切断面の神経に麻酔をかけるといった処置では消失しない.幻影肢は単なる心理的 and/or 生理的な要因には還元できない.幻影肢は「身体」に沈殿したかつての習慣すなわち「身体図式」が作動することによってあらわれる.失った肢体を使うのが常であった状況において現状とはかけ離れた古い習慣がおもわず現れることで,失った手足の痛みなどがありありと感じられるのである.
そして幻影肢は患者が「幻影肢の切断手術」に応じたとき,その瞬間に消えてしまう.幻影肢の切断手術に同意するとき,その患者は手や足を失った自分のあり方を受け入れたのであり,このとき新たな身体図式がすでに知らずして形成されているのである.このとき,かつての習慣(身体図式)はもはや作動しない.だからこそ幻影肢は消えるのである.

知覚の現象学 1(邦訳,1巻,pp.148-149)にはたとえば以下のようにあります:われわれの身体は,習慣的身体 le corps habituel と現勢的身体 le corps actuel という二つの層としてふるまう(comporter).アクチュアルな層からはすでに消失した手の所作が習慣的な層に表現されている(figurer)こともある.そして,どうして私が,もはや自分のもっていない手をまだもっていると感じることができるのかという問題は,どのようにして習慣的な身体がアクチュアルな身体を保証する〈準拠となる〉ことができるのか,という問題に帰着する】【なお「哲学マップ」には「メルロ = ポンティの考えから、現代の認知科学ギブソンの言う「アフォーダンス」も理解できる」とあり興味ぶかいところですが,とりあえず略】