エイドスなど

現象学事典』の「エイドス」「スペチエス」「本質」といった項をみると,これらがみな「見る」ことに関連していることがわかる.また「知覚」「直観」「イデアチオン」といった事柄もまた「見る」ことをモデルとしているようだ.
それにしても「種」を意味するスペチエス species まで「見る」(specire) という動詞に由来する言葉だったとはおどろいた.スペクタークル.

【追記:そういえば羅和辞典を持っているのだった.ということでスペチエスとそのもとになった動詞について調べたところ,それぞれ以下のような意味があるらしい.
speciēs:1.見ること,注視,眼つき.2.外見,形.3.まぼろし,幻影.4.美しい姿,美観.5.像.6.観念,概念.7.理想.8.《生物》種.9.特殊,特例.10.薬味,香料.
speciō:1.見る,観取する.2.観察する.】

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ソクラテスはその対話問答において,さまざまな徳について,その「そもそもなにであるか」ということを問いただした.たとえば「善い」という徳を備えた行為にはさまざまなものがあるだろう.けれども,それらの行為に共通する「善い」という徳は「そもそもなにであるか」.プラトンの「イデア idea」または「エイドス eidos」も,アリストテレスの「実体 ousia」や「本質 to ti ēn einai」,また「形相」と訳される「エイドス」も,このソクラテスの対話問答に由来する.(参考:アリストテレス形而上学岩波文庫版,第一巻第六章の訳注(4))

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エイドス,イデア,見られたもの
イデア idea」「エイドス eidos」はともにギリシア語の「見る idein(イデイン)」という動詞から派生した語であり「見られたもの」やその「形」「すがた」を意味する.
『論理学研究』でフッサールはイデー(理念,Idee)という術語をもちいた.しかしそれはカントを連想させたためしばしば誤解を受けたという.その誤解を避けるため,フッサールは『イデーンI』において形相(エイドス)およびドイツ語のWesen(本質)の語を採用した.
エイドスは イデアチオンによって対象的に把握される;フッサールによれば,個物は形相を有しており,その形相はイデアチオンという操作によって直観的に取り出すことができる.

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エイドス → 形相,種(スペチエス),本質
エイドス eidos は「質料 hylē,materia」との関連においては「形相 forma」と訳される.一方,「類 gēnos,genus」との関連においては「種 species」と訳される.
スペチエス species というラテン語の名詞はもともと「見る」(specire)という動詞に由来し,「視覚」「外観」などを意味する.そこから一定の外観が属する特殊な事物としての「種」をも意味するようになり,やがて哲学においてギリシャ語の eidos に対するラテン語訳として慣用された.
「種」と「形相」とではニュアンスに大きな隔たりがあるようであるがそうではない.
たとえば「人間は理性的動物である」と定義するとき,「人間」という eidos は,動物を「質料」とみれば「形相」であり,動物を「類」とみれば「種」である:動物という類においてさらに人間という「種」に分類されるモノたちは,他の種の動物にはない何らかの「形相」を備えているのだと考えることもできる.
フッサールは『論理学研究』において「意味」をスペチエスのなかに位置づける.スペチエスは類の一般性に比べれば個別性をもっているが,単なる感覚的・経験的な個別者ではなく,多数のさまざまな個物を包括する「多様性のなかの単一性」[LU II/1,102]であり, リアルな感覚的経験の次元を越えた, いわば「イデア的個別者」[LU I,173] である.フッサールは表現の〈意味〉について,表現に意味を付与する主観の「意味作用」(Bedeuten)は動揺しても「意味」(Bedeutung)そのものは変化しない,すなわち「イデア的統一性」を保持するのだと考える.そして意味のイデア的同一性を「スペチエスの同一性」と呼ぶ[LU II/1,100].

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本質 ousia,toti ēn einai,essence,Wesen はソクラテス以来の「〜とはなにか」という問いに答えるものとして,ものの根本的な属性をなすものである.
(1)本質はものの不可欠かつ必然的な属性とされる:このような根本性格をプラトンイデアと呼んだ.アリストテレスは本質は質料と相関する eidos (形相)であり形式的なるものとして,本質が独立の実在性をもつことを否定した.いずれにせよ本質は個々の対象とその経験的な認識を越えて, したがって経験に依存せず・理性によってのみ把握されるものとされる.
(2)本質はまたアリストテレスの「実体 ousia, substantia」概念にいきつく:本質はエイドスすなわち形式的規定のみならず,具体的個物としての実体をも意味する.

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なお「人間は理性的動物である」という言葉は「人間とはなにであるか」という問いに対する答えであり,「理性的動物」は人間の「本質」を説明したものだとみなすことができる.ここにおいて「本質」と「形相 eidos」とは等しい位置を占めることになる(参考:『形而上学岩波文庫版,第一巻第三章の訳注(1)).

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現象学において,本質はおもにアプリオリな直観によって認識されるものであり,現象学や数学などの「形相学」の学問性を基礎づけるものと考えられた.フッサールは一貫して前者(1)の意味で「本質」という概念を用いている.また中期では eidos という語も同義語として用いている.
本質を把握する直観をフッサールは知覚などの経験的直観と区別してIdeation(イデアチオン),Wesensschau (本質直観)と呼ぶ.

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【ここまで.知覚や直観にかんしては機を改めて】