追記

では三角形一般が「語り存在」であるとして,私たちがそのような語り方を習得するのはどのようにしてなのか.普遍や一般が言語使用において言語的に意味制作されるとして,そのような言語使用はそもそもどのようにして可能になるのか.
「語り存在」といわれてみれば確かにそのとおりと腑におちはするものの,どこか釈然としない.そのような語りを可能にする条件をつきつめてゆけば,フッサールの「カテゴリー的直観」へと逢着するのかもしれない.
日常生活においては個々の三角形を見ることはできても三角形一般は見えない.個々人と出会うことはあっても人間一般と出食わすことはない.個々のモノを手に握ることはできても「モノが在る」ことを手に握ることはできない.おおよそこうした事情から「カテゴリー的直観」は要請されるのだろう.三角形一般について考えるに先だって個々の三角形をみる,1や2について考えるまえに一本の鉛筆や2枚のクッキーを手にする,そうした経験を積み重ねてゆくなかで三角形や1や2といった普遍名詞の使用法を習得してゆく.すなわち「語り存在」を用いて世界を認識し語りあう術を習得する.これがおおよその実情とは思う.しかし,そもそも「カテゴリー的直観」めいた能力がなければ個々のモノゴトについて見聞きし語ることさえ不可能であるように思う.ある「一つ」の出来事や物品について何事かを把握し語るなどということはどうして可能なのか.