大森とフッサール(2)

あなたの国はとても美しいけれど,でも好きじゃないんです.

  • -

「フッセルは自分で幽霊を作り上げてそれとたたかっているように見える」という大森の見解にかんする覚え書.いつも以上に長文.

  • -

上記の見解には共感をおぼえる.それはもちろんフッサールについての理解不足によるもので,それを共感などとはオコガマシイ.自らの見解がないところに共感も我田引水もないものだ.しかし“大森哲学”のご威光をバックに見返してみれば,たしかにフッサールは「幽霊」を見ているのではないかともおもえてくる.フッサールは「幽霊」を見ている.それはフッサールの「直観」のなせるわざだ.そのように感じる:フッサールが用いる「直観」という概念が私にはよくわからない.そして,フッサールが「幽霊」を見ているのだとすればそれは「直観」という概念をもちいたことによるだろう.

  • -

大森はいう.「しかし私には,フッセルは自分で幽霊を作り上げてそれとたたかっているように見える.ガリレイデカルトの自然学も現代科学も,フッセルのいう意味で抽象化され,数学化されてはいない,と私には思われる.」[1](p.147).ここで「幽霊」とはフッサールのいう意味で抽象化され,数学化された自然科学のことだろう.
フッサールのいう「数学化」とは「具体的で経験的な現実世界」を土台としつつ,それと切り離された「抽象的世界」を構築することである.フッサールは「数学化」された自然科学の独り歩きこそ現代の「危機」であり現実生活の世界とのつながりを回復せよと主張する.たとえばフッサールはいう[2](p.94).

「数学と数学的自然科学」という理念の衣――あるいはその代わりに,記号の衣,記号的,数学的理論の衣といってもよいが――は,科学者と教養人とにとっては,「客観的に現実的で真の」自然として,生活世界の代理をし,それを覆い隠すようなすべてのものを包含することになる.この理念の衣は,一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる.

しかし大森によれば,フッサールの「理念の衣」に覆われた生活世界という解釈図式は誤解のうえに捏造された虚構にすぎない.フッサールのいう「数学化」された自然科学とは「幽霊」なのだから,現代の「危機」も枯れ尾花でしかない.

  • -

それではなぜフッサールは「幽霊」を見てしまうのか.瞳をまもるための緑のレンズのせいだろうか.

  • -

数学や自然科学についてのフッサールの見解は当時の数学観,科学観と一致しているようだ(フッサールが当時の数学観,科学観を踏襲した面もあれば,フッサールの思想がそれらに与えた影響もあるだろう).一方,フッサールが「幽霊」をみているとする大森はそうした数学観,科学観を批判している.科学観にかんしてはたとえば以下のように[3]:19世紀から20世紀にかけて,電子や陽子といった素粒子の存在が疑われたことがあった.素粒子の存在証明の典型的パターンは「仮説演繹法(hypothetico-deductive method)」である.すなわち,

素粒子をふくむ理論T,おおくの器具にかんするマクロ理論Uとの連言から,幾つかの経験命題を演繹して,その経験命題を経験的に検証することによって理論Tの真なることが証明され,かくして素粒子の存在が証明される,というものである.これを簡約していえば,理論Tを経験可能なものに接続することによって間接的に経験的検証をおこなう,ということになる.

経験されるモノゴトと接続され間接的に検証される「理論T」は,フッサールにとっての「数学的自然科学」と同じ位置を占めるだろう.

  • -

仮説演繹法にはR.カルナップやA.エイヤーなど経験論の立場をとる論理実証主義者も納得したという.しかし大森は(1)補助的につかわれるマクロ理論Uが時と場合によって変化し定まらないこと,(2)この方法で検証されるのは「特定の素粒子による観測器具への因果作用」のみであり,たとえば「電子なるもの」一般にかんする存在証明にはなりえないこと,これらのことから仮説演繹法を斥け,替わりに「重ね描き」という観点を提示する.
大森によれば素粒子は「語り存在」である.日常生活で「経験」されるマクロな物体,たとえば椅子は,日常生活では「日常言語」によって描写され,語られる.一方,その椅子は素粒子の塊としてミクロ描写することもできる.素粒子によるミクロ描写のしかたは素粒子にかんする理論Tによって規定される.理論Tという“言語”によるミクロ描写「素粒子の塊」と日常言語によるマクロ描写「椅子」とは時空間的にピタリと重ね描きされることになる.この重ね描きを無数のマクロ物体に施してそれが成功することは,素粒子によって経験を首尾よく語ること,ひいては経験世界を素粒子の塊によって描写できたことであり,それは経験世界における素粒子の存在の証明となるだろう.このとき,素粒子は「語り存在」として存在証明を得る.
重ね描きによる語り存在としての存在証明と,仮説演繹法による存在証明の違いは,重ね描きは補助理論Uという不定要素を必要としないこと,個々の素粒子の因果作用ではなく素粒子の全体(素粒子という普遍)を集団的にあつかっていることである【素粒子の存在を検証する科学実験も,実験室という「生活世界」における科学者の経験を「物理学言語」とりわけ「素粒子」によって「語る」いとなみなのだろう】.

      • -

大森によれば「三角形一般」は「語り存在」である.それは「赤」や「犬」,あるいは「素粒子」や「細菌」などとおなじ存在であり,それは経験を語るために日々用いられている.
一方,フッサールにとって「三角形一般」はイデア的な対象であり,そうしたイデア的な対象にかんする学問がたとえば幾何学であり数学である.幾何学は「理念化」により成立した学問であり,幾何学の対象である点や直線,三角形や円はリアルには見てとることはできない.
大森のフッサール批判――大森とフッサールの数学観や科学観のちがいは一般観念(普遍的対象)にたいする両者の考えの違いに由来しているように感じる.
大森によれば一般観念・普遍的対象は「語り存在」である.その存在の意味は経験を語らうなかで意味制作される.制作された存在意味は経験を成功裡に語りつづけているかぎり「語り存在」でありつづける(一方,経験を語ることに失敗したとき語り存在は失われる).
フッサールによれば「三角形一般」や「存在 Sein」,「集合」や「一」といった対象はリアルな感覚(ないし知覚,直観)では見いだすことはできず,かといってその“存在”を否定することもできない何かである.すなわちイデア的なモノである.そうしたイデア的な対象・カテゴリー的形式の意味・普遍的対象を“見てとる”能力がカテゴリー的直観である.「普遍性の意識」といったものが形成され,カテゴリー的直観がそなわっているからこそヒトは「三角形一般」や「存在」といったモノゴトを取り扱うことができる.

  • -

フッサールによればリアルなモノゴトにたいする知の営み(たとえば測量術)からイデアなモノゴトについての学問(たとえば幾何学)が成立したのは「理念化」の働きによるという.リアルな世界の具体的な三角形からはイデア的な「三角形一般」はうまれない.「三角形一般」を構成するのは「理念化」のはたらきによる.こうして「理念化」されたモノゴトを見る能力がすなわち「カテゴリー的直観」である.とすればフッサールがみている「幽霊」はこの「カテゴリー的直観」とともに成立した何かであろう.
見者フッサールが幽霊をみているのか,そのように片をつけたがる私が盲目なのか.まどろみつづけるために暗がりへと逃げこんでいるだけなのか.ともあれフッサールの論にかんして何かを判断するには理解できない用語が多すぎて,カテゴリー的直観こそが「幽霊」を成立させてはいないか,な〜んて見えを切ることさえ身の程を知らず,そもそも「直観」という語りがはたして何を示しているのかすらよくわかってはいない.

      • -

この話題はひとまずここまで.
直観や知覚,あるいはイデアや形相,スペチエス,カテゴリーといった一群の言葉による語りへの馴染みのなさが,フッサールの語りがわかるようでいてわからないことの理由なのだとおもいます(それは西洋哲学の伝統になじみがないということなのでしょう)


[1]大森荘蔵『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫
[2]フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と〜〜』中公文庫
[3]大森荘蔵「疑わしき存在」『時間と存在』青土社