危機第9章,幾何学(2)

要旨は以下のようになるだろうか:フッサールは「自然の数学化」と「幾何学の空洞化」を批判する.イデアな世界を知るための幾何学を無批判にリアルな世界にあてはめるから幾何学の描き出すイデアな世界を自然の真の姿ととりちがえてしまう.そのうえ代数学の発展とその幾何学や自然科学への適用のせいで,ゲームじみた記号操作がもたらす「式」と,式により導出される答えこそが自然の真の姿だってことになる.大地にねざした生活,リアルな世界の生き生きとした意味,それはいまや隠蔽され忘れ去られてしまったのだ.嗚呼.それもこれもみ〜んなガリレイが悪いんだから!(ってのはいい過ぎだけど).
【産業の発展と情報化のはてにリアルな世界は失われてしまっただとか,現実と虚構(もしくはリアルとヴァーチャル)の混同だとか,そんなたぐいの話におもわれてしかたがない.半ばは読み手の解釈枠組みのせいだろうけれども】

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フッサールによれば,いまや自然は数学化されてしまっている.幾何学ひいては数学によって明らかにされる理念化(イデア化)された自然が「真の自然」と取り違えられている.これはガリレイおよびそれ以後の自然科学によってもたらされたことだ.
そもそも世界は「主観に相対的」である.各人は自分一人にとっての“現われ”(知覚され意識されるモノゴト)を体験し,それをリアルな存在とみなしている.もちろんそれは「主観」にすぎない.しかしそれらの「主観」はみな「同じ」世界にかかわることだと信じられている.なんとナイーブな.
さて,では「それ自体において客観的に存在する事物」とは空虚な理念にすぎないのか.それとも各人にとっての「現われ」には「真の自然」が示されているのか.ガリレイは以下のことを「自明」としていた:時空のうちに理念的に描くことのできる「純粋な形態」について幾何学的・数学的に導かれることは「真の自然」の認識となる.
このガリレイの考えにもとづいて数学的な自然科学は発展してきた.その過程で,さらなる変化が加わることにより,現代における数学的自然科学ならびに自然観がもたらされた.

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数学によって構築された理念体の世界と日常的な生活世界とのすりかえ,いわばイデアな世界とリアルな世界とのすりかえは,ガリレイのもとで成立した.それは,幾何学がそもそも「理念化」によって成立したこと,その基盤は学問以前の測量術・測定術であることをガリレイがなおざりにしたことによる(第9章,h):
ガリレイは実験・観察データを数学的に処理する.たとえば天体観測の結果をユークリッド幾何学によってとりあつかう.このユークリッド幾何学はそもそも実用的な測地術に根源をもつ.測地術は「幾何学にとっての意味の基底」である.幾何学を成立させる「理念化」は測地術から生じた.この理念化によって幾何学や,思い描かれた幾何学図形を客観的に描き出す「作図」という方法がうみだされたのだ.
あらゆる生活の基盤にあって「理念化」の作用として働き「幾何学的な理念的形象」を生じさせる「作業」は「根源的な意味付与の作業」といえるだろう.リアルな世界における形態をこねくり回しても精密な【イデア的な】形態は生じない.「幾何学」を成立させる「理念化」のためには,それ以外の何らかの「作業」が必要である.それが「根源的な意味付与の作業」だ.
ガリレイは,幾何学が成立させる「理念化」,それをもたらす「根源的な意味付与の作業」についてよく考えなかった.「こうして幾何学は,固有の直接明証的でア・プリオリな「直観」とそれを操作する思考とによって,独自の絶対的真理を創造するものであり,そしてその真理は自明な真理として問題なしに適用可能であると思われえたのであった」.ア・プリオリな,イデア的な「直観」すなわち幾何学図形を思考によって操作することで真理が導き出されるのであり,それは真の自然にあてはまる真理なのだと考えられるようになった.「したがって,理念化された自然を,学以前の直観的自然にすりかえることは,ガリレイと同時にはじまったことになる」.

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さらにフッサールによれば,現代における数学的自然科学,数学的自然認識には「技術化」による意味の空洞化があるという.それは幾何学の算術化・代数化によってもたらされた(第9章,f,g):
16世紀後半,ヴィエトは記号代数の原理と方法を確立し代数学の父と呼ばれるにいたった.それ以降,測定量の関数的関係については特定の数ではなく数一般についての一般命題によって表現されるようになる;6 = 2*3 ではなく,x や y,a や b などを用いて y = 2x,y = ax + b などと表記されることになる.代数学により「算術的思考は,すべての直観的現実から完全に切り離され,数一般,数関係,数法則についての,自由で体系的なア・プリオリな思考となる」.この代数学的形式化のさきにはライプニッツの「普遍数学」の構想があり,ひいては形式論理学がある.
算術的思考は 2 や 3 といった特定の数についての思考だった.それは代数学的思考により x や y といった対象一般についての思考となり「直観的現実」からは切り離される.この代数学の方法は幾何学にも適用される.こうして「幾何学の算術化」ないし代数化がもたらされる.純粋形態(理念としての直線,円,三角形,運動,位置関係など)は算術的にとりあつかわれるようになる(たとえば座標平面に表示され,関数としてあつかわれるようになる).ここから幾何学の意味の空洞化がもたらされる.それまで幾何学による思考が「純粋直観」によりあつかっていたイデア的な形態は x や y という数一般や,座標空間,関数などとして代数的にとりあつかわれる.ここには「記号的」な操作による計算があるだけで,この代数的計算においては「幾何学的意味」は脱けおちてしまうのだ.
代数的算術は「純粋直観」の数学(幾何学)へ適用され,それによって「数学化された自然」(幾何学が描き出す自然)へと適用される.その結果はふたたび代数的算術へとフィードバックされるだろう.ここで代数的な算術は規則にのっとった計算術(記号操作)により演算結果を得るための単なる技術になってしまう.

人は文字や結合記号や関係記号(+,×,=などのような)を,その結合のゲーム規則に従って,すなわち事実上本質的にはカードや将棋といったゲームと同じような仕方で操作するのである.その技術的操作に真の意味を与え,かつ規則に合った結果に真理性(それがたとえ形式的普遍数学に特有な「形式的真理性」であろうと)を与える根源的思考は,ここで排除されているのだ.

「形式的数学の思考作業を技術化すること」により,経験し発見する思考は「記号的」な概念による思考となる.それとともに幾何学的思考,ひいては自然科学的思考もまた「空洞化」されてしまう.