危機第9章,幾何学

大森によれば,フッサールはたとえば『危機』において「経験世界での測量や計測が精密化されたのが幾何図形」であるとしたらしい.どういうことか.
(関連:id:somamiti:20060901)

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フッサールによれば,幾何学の根源は測量術(測定術,測地術)である.
リアルに知覚されるモノの形態はそれだけでは「客観性」をもたない.たとえばある建物は視点によって長方形にも正方形にも見られうるだろう.見た人の主観や時と場合によって見かけの大きさも変化するだろう.そのような形態は「すべての人にとって――それを実際に同時に見ていない他人にとっても――相互主観的に規定可能であったり,その規定性を伝達できたりするようなものではない」.測定術はその形態に「客観性を与え,相互主観的なものにするのに役立つ」.Aさんの背格好は見る人によって「大きい」「小さい」いろいろな評価があるだろうが,身体測定によって得られた数値は,とりあえず客観的なデータとして通用するだろう.測定はメートル法などの世間一般に通用する尺度を定規や巻尺に刻みこみ,それと測定されるモノを比べることによりなされる.すなわち「測定術は,なんらかの経験的な基本形態を,実際上普通に扱うことのできる経験的な意味での固体に固定させて,それを尺度として選び出し,それとほかの物体の形態とのあいだに存在する(あるいは発見される)関係によって,このほかの形態に,相互主観的な,また実用上一義的な規定を与えうるという可能性を,実用のなかで発見する」.
経験的な,リアルな世界にかんする測定術の機能は形態の「客観化」にある.この測定術とその機能は「理念化され」,イデアルな世界(たとえば「幅のない線」「拡がりのない点」といったイデアの世界)についての「純粋幾何学」となった.

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フッサールは「経験的空間」と「幾何学的空間」との違いを以下のように述べる:
「純粋幾何学」(たとえばユークリッド幾何学)は(1)純粋に理念的なものをとりあつかう.たとえば「幅のない線」は知覚されはしない.リアルな世界には「幅のない線」など見いだされはしない.それはいわば理念(イデア)として思われる・考えられるだけなのだ.そして「純粋幾何学」はガリレイに受け継がれ,そこから(2)感覚的経験の世界に適用されつつ受け継がれ,発展してきている.たとえば惑星の運行というリアルな出来事について幾何学によって考えるように.いまとなってはこの(1)理論と(2)経験とのやりとりが日常的に身近になっている.だから私たちは「幾何学が語る空間や空間的形態」と「経験的現実の空間や空間的形態」とは同じものだと考えやすい.でもそれらは違うものだ.
リアルな物体の形態を想像のなかでどのように操作しようが(もしくは知覚することのできるリアルな模型によってシミュレーションしようが),そのバリエーションはそれは幾何学的な意味での理念的な可能性ではない【もともと「純粋な」すなわちイデア的な形態,幾何学において定義されるような直線や点などは知覚や想像できないものなのだから】,

すなわち,「純粋な」立体,「純粋な」直線,「純粋な」平面,「純粋な」形態,さらに「純粋な」形態において生起する運動や変形といった,理念的な空間のうちに描かれうる,幾何学的に「純粋な」諸形態ではないのだ.

だから「幾何学的空間とは,想像された空間のようなものではない」.

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「経験的空間」と「幾何学的空間」とはいわば「応用幾何学」によって関連づけられる.もちろんそれは近似的な関係でしかない:
数学は(1)物体世界を空間時間的な形態について「理念化」することにより,理念的な客観性をつくりだした.そして(2)「測定術」により経験的空間へと適用される:「理念的な対象の世界から,ふたたび経験的に直観される世界へ下降する」.これによってリアル世界のモノについて,その形態についての「客観的」で「リアル」な認識をもたらす.ただしその認識は「理念的な対象」の近似でしかない.目に見える「描線」は,どこまで「細く」していっても「幅のない線」ではない;幾何学が思考によって取り扱うような「直線」ではないのだから.
理念的な数学はリアルな測定術と結びつくことでリアルな世界についての「予見」を可能にする.リアルな測定術によって得られたデータを数学的に処理することで,直接には知覚されず・測定されていない側面(形態,位置)についての予測をたてることができる:「そのつど与えられ測られた形態的な出来事」にもとづき「知られてもいないし直接にはけっして測ることもできない出来事をも,異論の余地のない必然性をもって「計算」しうるのである」.
こうして理念的な幾何学は「応用」幾何学となる.そしてリアルな世界についての認識の一般的方法となった.

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(つづく?)