第六研究,存在

(モノゴトにかんする知覚や判断は,なんらかの形式 form にそって形づくられ表現される.たとえば「このカゴのなかにひとつのトマトがある」などとして.この表現では「がある」「ひとつの」「この」といった形式が用いられている.「がある」「ひとつの」「この」といった形式は,カゴだろうがトマトだろうがリンゴだろうが,いろいろなモノに付け加えることができる形式である.逆に「がある(存在する,Sein,be)」という形式で表現されるモノは「あるモノ(存在するもの)」というカテゴリーによって一括することができる.そこでこのような形式のことをカテゴリー的形式と呼ぼう).
おもうに,狭い意味で知覚されるのは,眼で見,耳で聞くなど,何らかの《外官》ないし《内官》により把握しうる対象的なモノでしかない.「がある」や「ひとつの」だなんてカテゴリーは眼には見えないし耳には聞こえない.存在は決して知覚可能なものではない.「存在 Sein」というコトバの形式には客観的 objektive な相関者はみいだせない.このことは Ein,Das,Und,Oder,Wenn(a,the,and,or,when)といった表現形式についてあてはまる.あるいはまた「色は見えるが,有色であること Farbig-sein は見えない.…….音は聞きうるが,音が鳴っていること Tönend-sein は聞けない」.とすれば「存在 Sein」なんてことは見聞きされる対象(リンゴ,トマト,カゴ)には含まれてはいないのだ.
それなのに,「このカゴのなかにひとつのトマトがある」というコトバや判断は,このカゴのなかにひとつのトマトがあることを「見る」というリアルな知覚,リアルな体験によって確認される.そしてリアルな体験とコトバによって判断が言い表しているコトとが一致すれば,その判断は「真理」とされる.すなわち判断は知覚されたモノと一致することで真理となる.
このことは古来より《ものと知性との一致 adaequatio rei et intellectus》という意味での存在,判断の真理としての存在,真理という意味での存在 das Sein im Sinne der Wahrheit などといわれてきた.
「がある」という判断は知覚されたモノゴトと一致することで真理となる.「存在」ということは知覚されるモノには含まれていないが,にもかかわらず存在の意味は,知覚によってなにか内実をともなったものとなる.とすれば「がある」というカテゴリー的形式をもつモノゴトは,ただ考えられているのではなく,まさに知覚にもとづいて「直観」されている.知覚にもとづくなんらかの「直観」によって「存在(がある)」というカテゴリー的形式の意味は充実され,たとえばトマト「がある」ということが「直観」される.このような「がある(存在)」といったカテゴリー的形式にかかわる「直観」のことを「カテゴリー的直観」とよぼう.
カテゴリー的形式を備えた対象は,ただ単に思惟されているのではなく,まさに直観ないし知覚されている.カテゴリー的直観によりカテゴリー的形式(たとえば存在)の意味は充実される.
フッサール,論研,第6研究,§44,§45)

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フッサールが述べる「カテゴリー的直観」は意識のありかたと関連しているだろう.というのも「存在」というカテゴリー的形式は,存在するコトモノ一般にかかわる「理念」といえるだろうから.
そしてフッサールは以下のように述べている(第6研究,§52):普遍性(一般性)の意識は,たとえば知覚などを基礎にして形成される.そして,普遍性の意識が形成されれば,赤の理念,三角形の理念など,一般者それ自身が把握され,直観される.