存在モノ語り

存在するモノは言語の外に存在する.けれども存在の意味は,存在するものについての語りのなかにこめられている.この存在の意味はあくまで文脈的なものであり,辞書的定義のかたちではない.ある人の存在(存在の意味)にかんする知り方(知識にせよ知覚にせよ)に誤りがあるのが判明するのは,その人が誤った命題をいうケースにおいてである.そのケースにおける正誤の判別もまた文脈的になされる;存在語りの文脈において,他の命題(文)と比較対照されることによってなされる.
言語のなかの意味は,言語外の存在のあり方を文脈的に誤まりなく写したものである(そのようなものとして使用される).普遍は存在するのかという問いは,普遍の存在のあり方を適切に写す存在の意味を制作できるかという問いとなるだろう.そして,その存在の意味を使用する命題のすべてに誤まりがなければ(その意味を経験において成功理に使用できれば),それは普遍が存在することを示すだろう.普遍(ないし,その外延としての集合)は「語り存在」,それらを語る語りのなかで制作された意味である.「普遍や集合を考える,その体験の中においてそれらの「存在」の意味が初めて生成され制作される」「言語使用の語りの中で普遍の意味と普遍の存在の意味が制作される」.ここでいう「言語的制作」はプラトンアリストテレスの用語をもちいて「ポイエーシス」と表現できるだろう.
大森荘蔵,「存在と意味」)
この論旨にそえば,フッサールが述べる「カテゴリー的形式」としての「存在」もまた語りにおいて制作される存在,すなわち語り存在といえるだろう.「存在」というカテゴリーは知覚されない(知覚存在ではない)が,「存在」なるものは,世界とはモノゴトが存在する(または存在しない)世界であるという語りにおいて――世界を存在という語りによって描写し物語る,いわば世界の存在語りにおいて――日常的に経験され制作されている.とはいえそうした「存在」の意味はなにかと問えば「存在の意味はあくまで文脈的なもの」なのである.この立場はアリストテレスのように「存在は多義的」とする立場と似ているとおもう.
← ものが云々である(存在する)というのにも,それらが種々の形態で述語される(カテゴライズされる)だけ,それだけ多くの意味がある(アリストテレス形而上学,第5巻,第7章).

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下記のフッサールの論にそっていえば,「普遍性の意識」が形成されることで「カテゴリー的直観」がうまれ,それによってイデア的な対象,カテゴリー的形式,ひいては「普遍」「一般」的な対象が把握・直観される――ということになりそうだ.
とすれば,そもそも「普遍性の意識」とやらはどのようにして形成されるのか.その形成は大森の表現を借りれば「知覚正面の無限集合」の成立によって3-D存在の意味制作がなされるケースにおける「無限集合」の成立と機を等しくしているようにおもう.大森の論旨にそえば,それは語らいの経験(ひいては文脈における命題(文)ないし知覚正面の相互参照)によって,すなわちなんらかの言語を母胎として(すでに成立している「赤」や「存在」「集合」といった普遍的な名詞のマトリクスに従って,名指しをはじめとする行為によって)形成される――といえるだろう.
ここで,複数の命題(ないし知覚正面)が相互に参照・比較検討されるには,それらがある類(普遍)に属すること(そのような判断・規定)が必要条件であるようにおもえる.とはいえそのような「普遍に属する」といった判断や規定は,べつに個人の意識のみにおいて成立しなくてもよいわけで,日々の生活やそこにおける語らいにおいて強制的に・他から提供された道具だてを借りてなされている,というほうがわかりやすいと思う.