大森とフッサール

幾何学にかんする大森のフッサール批判,ひいては「フッセルは自分で幽霊を作り上げてそれとたたかっているように見える」という大森の見解について考えるために『論理学研究』におけるフッサールのバークリー批判(id:somamiti:20060830)を読む.【関連:id:somamiti:20060228#p2】
フッサールのバークリー批判は一般観念(ないし普遍的対象)をあつかう文脈においてなされる.

  • -

論研におけるフッサールのバークリー批判は大森も認めている.大森は以下のように述べる:
バークリーら経験論者は普遍など存在しないと批判する.たとえば個別的な犬,一匹一匹の犬は見聞きできる.その意味は知覚によって了解できる.しかし犬一般は見聞きできない.だから犬一般などという普遍の意味は了解できない.たとえばロックは三角形一般の観念があるとすれば,それは「斜角でも直角でもなく,等辺でも二等辺でも不等辺でもないものであり,かつ,それらのすべてである」(人間知性論,第4巻,第7章)ようなものだとするが,バークリーにいわせればそんな三角形は知覚することはできず,それゆえ存在するわけもない.しかしここで,バークリーは「普遍的三角形に個別的三角形と同様な知覚可能性を要求してそれがないことを罵っている」だけなのだ.経験論者や唯名論者は,普遍をなにか知覚可能なものと考えがちだ.そうしてヒュームのように,すでに了解された個体の把握にもとづき,なんらかの心理的・論理的仕組みによって普遍の了解が組み立てられるのだと考える.しかしそれは論点先取・循環論におちいる.これは,たとえばフッサールが『論理学研究』で指摘したことだ.
そもそも普遍とは考え思われる conceive ものであって知覚される perceive (もしくは知覚的に想像(イメージ)される)ものではない.考えられるものと知覚されイメージされるものは違う.たとえば1000角形を999角形と区別して思い描くことができるとすれば,それはそもそも999角形と区別される1000角形を「考えている」ことによる.普遍である「三角形(一般)」は,たとえば個々に知覚される三角形をすべてその一例(instance)とする或るものとして考えられる.三角形の普遍,三角形一般は,個別三角形のような「知覚される」辺や角をもたないものとして「考えられる」のだ.普遍はただ「思う」ことができて「知覚する」ことはできない.

  • -

大森によれば,「思う」ことができるだけの普遍はしかしながら存在する.それも「思い」「語り」において経験される存在として.大森によれば,その存在性格は「語り存在」である:
それにしても,三角形一般という普遍(あるいはその外延である三角形すべての集合)が「考えられる」としてもそれは考えられるのみであり存在しないのではないか.あるいは,たとえば唯名論者は普遍は名のみとする.そこに在るのは「アカ」「サンカクケイ」という音のみであって経験的内容は何もないのではないか.どうだろう.
しかし,赤,三角形という普遍は「思う」対象としては日常的に経験されている.「あそこに赤い花が咲いている」と語る・思うとき,すでに赤の普遍や花の普遍が経験されている.たとえば4という普遍は4個の要素をもつ集合のすべてを包摂する.そのような普遍を指示する普遍名詞が数字の4である.1や2,10や20といった数とそれについての足し算引き算の学習の経験,自然数と四則演算の学習の経験を通じて,やがて自然数という普遍の体系によって世界における数的関係を成功裡に語ることができるようになる【初めてのお使いや給与計算,宴席の幹事としての出席者のカウント,などなど】.この語りのなかに,自然数のすべてが集団的に文脈的存在 = 語り存在を獲得する.
このような経験や語らいは普遍や集合そのものにも及ぶだろう.そして「普遍や集合を考える,その体験の中においてそれらの「存在」の意味が初めて生成され制作される」のであり「言語使用の語りの中で普遍の意味と普遍の存在の意味が制作される」.

  • -

語りによる存在の意味制作,それによる「語り存在」の獲得という存在性格は幾何図形にもあてはまる.幾何学にかんする大森の考えかたはこの線上にある:
たとえば幅のない線や拡がりのない点は考えられるものであり知覚されることはない.しかし線や点,そこから構成される幾何図形は知覚世界である経験世界の形状や距離についての語りに用いられる.幾何図形は考えられるものであり,かつ,知覚世界に重ねられるものである.「経験空間の事物に重ねて考えられる」ことを繰り返すことによって幾何図形の存在意味が生成され制作される.経験世界を幾何図形によって語ること,「その語りの習熟のなかで幾何図形の存在の意味が生成され作成されてきた」.
ユークリッド幾何学でいう「幅のない線」「拡がりのない点」は知覚不可能である.黒板にチョークで描かれた線は知覚されるものであるが,幾何学でいう「線」は知覚される描線に「重ねて」「考え思っている」のみである.しかしそのように「重ねて」「考え思う」ことが幾何学を知覚世界に適用可能とする.「幾何学の定理を証明するような場合には,任意の場所に幅のない線や拡がりのない点からなる多角形その他の幾何図形を思い描く.時には紙の上に鉛筆で描いた知覚図形に重ねて幾何図形を思い描く.この重ね描きこそ幾何学を知覚世界に適用可能とするものにほかならない」(疑わしき存在).幾何学図形は普遍存在とおなじく経験的存在(思い存在,語り存在)である.それらを経験的にするものは思いという経験であり,語りをとおしての経験世界との間接的なつながりである.それゆえ「数や幾何図形の存在を保証するために,われわれが生きている経験世界とは別の数学的世界や幾何学的空間を設定する必要は毛頭ない」.

  • -

この幾何学観にもとづき大森はフッサール幾何学観を批判する.とはいえ批判の対象となっているのはフッサール幾何学観のもとにある形式主義的・公理主義的幾何学観(ならびに論理実証主義における科学観)といえるだろう:
フッサールはたとえば『危機』において,経験世界での測量や計測が精密化されたのが幾何図形であるとする.
このフッサール幾何学観のおおもとにあるのはヒルベルト形式主義に由来する公理主義的な幾何学観だろう.すなわち幾何学は純粋記号体系であり記号の定義と推論規則によって公理系としての幾何学が成立する.そして,あらためて公理系としての幾何学の記号に「直線」にはピンと張った糸,「点」には糸と糸の交わりといった経験的定義をあたえることで経験的に幾何学を構成する.こうして,われわれの生活空間では純粋記号体系としてのユークリッド幾何学による経験幾何学がほぼ近似的に成立するのであるが,それはあくまで近似でしかない.またこの経験幾何学においては公理や定理は厳密には成立しない.その成立は測量器具などによる実測によって確かめるしかない.このような幾何学観だ.
しかし,幾何学の図形はいわば「生活空間と異なった別種の抽象的空間や神秘めいた純粋直観の空間(カント)」にあるのではない.幾何学がなりたつのは経験的な生活空間とは「別の」「純粋に形式的な幾何空間とでもいうべき空間」であり,その純粋幾何空間で成立する幾何学が,経験による解釈づけによって生活世界に適用されるのだという幾何学観は,幾何図形の存在意味が成立するプロセスを度外視することによる誤解だ.カントの純粋空間の直観という概念,フッサールの「理念化」の強調には,こうした誤解につながる素地がみえる.
幾何図形の存在意味は「経験空間の事物に重ねて考えられる」こと,経験空間を幾何図形によって語るという経験において制作される.幾何学が成立するのは「形式的な記号体系」でもなければ幾何学のために「わざわざ仕立てられた特別あつらえの空間」ではない.私たちが生きている生活空間になりたつ.生活空間になりたつ幾何学の無数の命題を演繹的に整理・再構成することであらためて公理系としての幾何学が成立する.

                    • -

(中断)

  • -

大森荘蔵「存在と意味」「疑わしき存在」「幾何学と運動」『時間と存在』
大森荘蔵『知の構築とその呪縛』
フッサール『論理学研究』第2研究
フッサール『超越論的現象学とヨーロッパ諸学の危機』第9章