犬の幾何学(2)

「時とともに《客観性 objectivity(おおくの人びとが妥当だとするようなモノゴト object らしさ)》が変化する」という命題.これが奇妙だとおもう感性は,いまとなっては「時代遅れ」かもしれない.現代の‘量子力学’的世界観【あるいは古代ギリシア以来の伝統をもつ相対主義的世界観】においてはむしろ「永遠の真理などない」「客観性といってもそれは文化によって束縛されている」「人生いろいろ,真理もいろいろ」とするほうが,むしろ常識かもしれない.「時とともに常識は変化する.それゆえ常識に従がう真理も変化する」.この現代の常識を「相対論」とよぼう.そのアントニムである近代のコモンセンスを「絶対論」とよぼう.相対論の否定は絶対論,絶対論の否定は相対論である.
(『犬の幾何学』)

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流れそのものは流れない(現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)

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公理系としての数学

「飛ぶ矢は飛ばない」.このパラドクスもまた「重ね描き」により解消されるだろう.飛ぶ矢の軌跡に重ねあわせて直線を思い描く.そこから無数の点を取り出す(切り出す)ことができるだろう.数学における実数は,そもそもそのように構成される.しかし軌跡として思い描かれた密画の任意の断端において‘矢が飛ばない’こと,略画において飛ぶ矢が飛ぶこと.そのことはなんら矛盾はしない;それらはじつは同じものなのだ.【そのように大森はいうだろう】【線(数直線)の切断による点(実数)の構成を連想する】

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‘公理系としての幾何学(数学)には「時間」が全くない’という指摘にかんして.
公理系においては初期設定としての定理および演算規則により全ての出力(その公理系における論理的に真なる命題)が一義的に(それ以外にはありえないというかたちで)導びかれる.それは,たとえるなら「神」の認識に似ている:
「われわれが造物主としての神に帰するいわゆる絶対的認識に比べて,純粋数学の認識がもっているただ一つの欠陥といえば,(神はすべてを一挙に認識するのに対して)数学的認識はつねに絶対的に明証的であるが,空間時間的形式のうちに,形態として「存在する」すべてのものを認識し,それを顕在的な数学として認識するのに,体系的な進行を必要とするという点だけである」(『危機』第九節).

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大森は公理系としての数学(幾何学)をみるみかたを批判する;大森の「重ね描き」論【ひいては「密画」としての科学的世界観という提案】は現代の数学(幾何学)観への批判のうえに成立する.幾何学についての現代の標準的な解釈は以下のようなものである(「幾何学と運動」『時間と存在』.文章は適当に変更):

線や点などの名辞,「線上にある」「2線が交わる」といった基本述語,これらはあらかじめ何の意味もあたえられていない未定義な概念である【べつに「点」「線上にある」のかわりに「ビール」「ジョッキに入っている」としてもよい】.これらの未定義概念のあいだに成立する関係を段階的に枚挙していったのがたとえばヒルベルトによるユークリッド幾何学の公理系である.
この公理系により未定義概念にいわば構文論的(シンタックス)な意味があたえられる.それにより無数の定理が厳密に論理的に成立する.
ユークリッド幾何学は純粋記号体系である.それゆえ純粋記号にして未定義語である線や点にはすきな定義を与えることができる.そこであらためて,「直線」にはピンと張った糸,「点」には糸と糸の交わりといった経験的定義をあたえて経験的に幾何学を構成する.この経験幾何学においては公理や定理は厳密には成立しない.その成立は測量器具などによる実測によって確かめるしかない.
たとえばわれわれの生活空間では純粋記号体系としてのユークリッド幾何学による経験幾何学がほぼ近似的に成立する.しかし宇宙空間の恒星を頂点にした巨大な三角形では内角の和は2直角ないしそれに近い値にはならない.そこではむしろ非ユークリッド幾何学に経験的定義をあたえた経験幾何学が近似的に成立する.


大森はこの標準的解釈そのものを批判する.ユークリッド時代の人々や現代のわれわれは,普通,幾何学を純粋記号体系とは考えない.たとえば経験幾何学において「直線」に「張り糸」という解釈を与えるのは,その糸が「近似的に直線にみえる」からそうする.このとき,「直線」がなにかということがあらかじめ了解されているはずだ.そのときの了解に「幅のない線」ということも含まれているなら,それはわれわれがユークリッド幾何学を理解するときに線や点を「幅のない線として了解している」ことを示している.
それにたいして大森は「重ね描き解釈」を提案する.幅のない線や拡がりのない点は「思考する」ことはできても「知覚する」ことはできない.われわれは白墨で描かれた線,紙のうえの鉛筆の線,タンスの縁などの多少なりとも「幅のある線」に「沿って」思っている:知覚可能な線や点の上に重ねて知覚不可能な幅のない線や拡がりのない点を思い描いている.すなわち
「誰もが知覚可能な図形や形態の上に重ねて幾何学の図形を思い描く,それがわれわれが幾何学を了解する仕方」であり幾何学と経験との「重ね描き」である(p.54).
このとき幾何学の諸定理は経験的事物の上に「重なって」成立している.諸定理と「重なっている」ものにかんする経験的実測は,それらの諸定理に収斂する.それゆえ実測において幾何学の諸定理が近似的に成立するのである.

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大森のフッサール批判は,この標準的解釈批判の延長線上にある.大森は以下のようにいう:
幾何学がなりたつのは経験的な生活空間とは「別の」「純粋に形式的な幾何空間とでもいうべき空間」であり,その純粋幾何空間で成立する幾何学が,経験による解釈づけによって生活世界にいわば適用されるという数学観がある.これは誤解である.この誤解につながる素地のみえる考え方として,たとえばフッサールによる数学における「理念化」の強調がある.
しかし幾何学が成立するのは「形式的な記号体系」でもなければ幾何学のために「わざわざ仕立てられた特別あつらえの空間」ではない.私たちが生きている生活空間においてなりたつのだ.この生活空間に幾何学者がさまざまな図形を思い描く.それらの図形について成立する無数の命題を演繹的に整理・再構成した公理系が幾何学なのである.

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点時刻の病理

では,飛ぶ矢のパラドクスについて大森はどう考えるか.大森はそこに「点時刻の病理」をみいだす.たとえば数直線としての‘時間軸’を描くとき人は時間をリニアーなものとして思い描く.そのような線形時間の「時刻」の概念には「点時刻」の概念がふくまれる.点時刻とは持続がゼロの時刻である.飛ぶ矢のパラドクス(およびアキレスと亀のパラドクス)は点時刻の概念のもたらす困難をしめす.
そもそも持続ゼロの点時刻における物の存在や状態を考えること,思い描くことはできない.点時刻における物の存在や物の状態は思考不可能,すなわち無意味である.なのに飛ぶ矢のパラドクスはそうしたことを前提として語っている;点時刻に矢が存在する/しない,静止している/動いている,というのはすべて無意味なのだ.それゆえ飛ぶ矢のパラドクスについての議論すべてが無意味な命題のつみ重ねであり,有意味な議論とはならない.
飛ぶ矢のパラドクスは点時刻に,アキレスと亀のパラドクスは幾何学的点に,それぞれ拡がりがないとする「定義」による.

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なお現代科学はあらゆる物理量を線形時間tの関数として表現する.仮に点時刻における物の存在と状態が無意味だとすれば現代科学は無意味な表現のうえに建てられているのだろうか.
そうではない.たとえば科学者は惑星の公転運動を表現するときには太陽点を中心とする楕円軌道を描いて惑星点の運動とする.しかしながらその楕円は運動の軌跡を表示するだけで運動そのものを表現しない.楕円上の惑星点の運動について,科学はただ口頭で「その上を動く」といってあとはそれを数学化するのである.

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運動感覚と「わたし」

飛ぶ矢のパラドクスはまた感覚的質の捨象,ひいては公理系としての数学化・理念化が「運動性の」知覚/記憶とは切れたものとなる困難との関連において,ひとつのアナロジーとして参照されたことだったようにおもう.
この運動性の知覚ないし記憶(あるいは感覚)にかんしてフッサールは,運動における「わたしがなす」という感覚を重視する.知覚システムすなわち「……の呈示」のシステムと相関した運動感覚的プロセス,それらのプロセスの自己の身体への「帰属」することにおいて;運動感覚とともに経過する多様な「呈示」において,そこには隠された‘if-then’がある.(もし)私が動く,(ならば)私の見る世界はそれに応じて変化する(だろう).こうして先どられた運動と知覚の系列が調和していることが,私にたいして現前する物が存在するという確信の背景にある【噛ってみればシャリシャリして甘酸っぱい(という予期と調和する)からこのリンゴは確かにある,と確信する.いくら甘酸っぱかろうが,リンゴガムをクチャクチャ噛んでいるそのときリンゴが口中に在るとは思えまい】(『危機』第28節,第47節)【なおこの運動感覚と「わたし」との問題系の延長線上に,フッサール他我問題をみる】.

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この運動感覚と「わたし」との問題系について,大森は以下のように述べている(参考「意識の虚構から「脳」の虚構へ」『時間と存在』,など).
「私が歩く」「彼が走る」「彼等が食べる」「あいつがでかける」といった動作表現の主語は,その表現から独立に切り離して知覚的に描写することはできない;動作主語はあくまで動作述語をともなって文となるときに,特定の動作を経験的に知覚可能なものとして描写する.
「直接独立には指示できないが文中では完全な経験描写となるもの」はいわば「語り存在」である.たとえば自然数がそれである.2個のリンゴは知覚的に,経験されるものとして描写できる.リンゴを伴わない「2」はそうではない.それゆえ「2」は「語り存在」である.
そして「私」や「彼」などの動作主体もまた語り存在である:「動作主体としての自我の意味は,他の代名詞群との共働生成とのなかで比較的容易に制作される」「自我概念はまず他の人称代名詞や人名と共に動作描写において語り存在の身分を獲得する.そしてそれは一人称主語として孤立的に獲得するのではなくて,他の代名詞や人名主語との類比や交換もそのなかで理解されてゆくだろう.こうして集団的に描写が理解されることで,自我の意味制作は一段と容易になり,わずか2歳の幼児が楽々なしとげているのを多くの人が見てきているだろう」.

【そしてソマミチとしては,大森さんの考え方のほうに親しみをおぼえます】【もっともフッサールの文章は,いろいろと新鮮な指摘もあり,そのうえ気持ちを逆撫でしてくるので読んでいて刺激的です】【あらためて考えると,運動感覚と「わたし」についての両者の考えは両立することのように感じる】

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つづく.

【とはいえ,こうした排泄物的【≒排-他-的(排他=ノエシス,排泄物=ノエマ[冗談])】にマジメな話は本日かぎりの出血ハラキリショーです.多分】