『老人と海』の背景

老人と海」はそれまでのヘミングウェイの作品のなかで最良のものである.アメリカ文学の伝統のうえで,その弱点を長所に転換した作品である.ではアメリカ文学の弱点とはなにか.福田はそれをヨーロッパ文学との比較により論じる.

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福田はベルナール・ファイの『アメリカ文明論』にもとづき,ヨーロッパの文明や社会は「時間の原理」のうえに,アメリカの文明や社会は「空間の原理」のうえになりたつとする.「時間の原理」とは過去や歴史である.ヨーロッパ社会は「時間の原理」が支配する.それゆえ個人と個人の関係はそれぞれの社会的背景(過去や経歴)に規定され自由ではない.社会により個人の意志は阻害され,社会問題は歴史の束縛から解決不能なものとされる.アメリカ社会は「空間の原理」が支配する.「空間の原理」は消極的には過去や歴史がない(個別的な背景の違いがない)ということであり,積極的には広大で茫漠たる(過去による束縛のない)空間があるということである.それゆえ人びとは自由に関係を結ぶことができる.また社会問題は歴史の束縛とは無縁であり,解決可能なものとされる.ヨーロッパ文明とアメリカ文明とのこの違いは,それぞれの人間観,小説における人間の描写,ひいてはヨーロッパ文学とアメリカ文学の違いとなる.

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ヨーロッパ文学では個性が追求される.読者は「作品のなかに,作者の個性を,登場人物の個性を求め」る.個性は時間の原理にしたがう:AやBの個性,ひいてはAとBとの関係は,AやBが生まれ育った社会における過去や歴史(A'ないしB')によって規定される.そして「AはBやB'にぶつかって,BはAやA'にぶつかって,ますます自分がA'のAであり,B'のBであることを痛感」させられる.それによって「ますます自己の特殊性を,いわば個性を発揮するのがおもしろい」のである.その後,19世紀のヨーロッパ文学は登場人物の精緻な心理描写を追求することで自己矛盾をきたし(それは読者たち一般がもつ個性への要求に応え,その個性と等しいものとみなされることで,かえって‘一般性’の描写となった),一次大戦後のヨーロッパ文学は対象をながめる自己 = 作者をとらえ「意識の流れや自意識の回転を微細に描こうとした文学」となる.それは行動からはなれて内面世界の表現に向かうあまり,「行動によって外面的に形を与えられた心理しか」信用しない実生活にいきる読者のありかたとは乖離したものとなりがちであったが,「その限界点に到達して,個性とはなにかを探ろうとしている苦悶の表情には切実なものがあり,それがわれわれの心をうった」のである.

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1920年代のアメリカ文学は社会的視野をもち社会問題をあつかうが,その社会は空間の原理に支配された社会である.空間の原理の支配するアメリカ社会においてはそもそもヨーロッパ社会における個性(個々人の経歴や歴史的背景の違い)はない.人びとの関係は時間の原理の束縛を受けず,あらゆる社会問題は解決可能なものとされる.そこでは「個人的な問題」がおろそかとなり,また社会や現実にたいする信頼がある.
1920年代の作家たちの後にあらわれた1890年代生まれの作家たちは‘ロスト・ジェネレーション’と称される.ヘミングウェイはこのロスト・ジェネレーションの作家の一人である.ロスト・ジェネレーションの文学は社会的連帯感や人間の善意を否定し,現実に絶望する点でヨーロッパ文学と類似している.しかし「アメリカ文学における否定や絶望にはある意味の甘さがある」.

【これにつづく福田の論からは一見して明解な意味を取りがたい.まずは以下に引用を示す】

たとえばフォークナーの小説を読んでいると,いままでアメリカ文学には見られなかった個人の内部にひそむ暗鬱な情念が追求されており,そういうものは社会性という公約数で割り切れないのですが,すこしうがった見方をすると,前代の作家たちの社会的善意にたいする反動ではないかとさえおもわれるのです.なんでもかんでも割り切れる透明で平面的なアメリカの社会と,その空間の原理によってつくられた人間像とにたいし,なんとか文学らしい深みと陰影とを与えようとして,無意識の情念が追求されだしたのではないか――そんな感じを与えるのです.いいかえると,まだまだ空間の原理が支配している社会のうちに,わざわざ隙を見つけて,そこだけは時間の原理が支配しているような局部を捜しだしてきたといった感じであります.
それは絶望などといったものではありません.ヨーロッパにおける絶望は,社会的連帯感にたいする疑惑だけにとどまらない.かれらの精神は,人間の社会性,およびそれをささえている精神の制御力に疑いをもつと同時に,それなら,そういう社会性や制御力を破壊してくるどうにもならない肉体的な情念を信頼しているかというと,じつはそれさえ信じていないのです.かれらにあっては,精神を否定するものは,やはり精神です.自意識過剰を否定するものは,やはり自意識です.それに反して,フォークナーやヘミングウェイは,肉体とかその情念とかいうものを信じております.ことにヘミングウェイについてそういえましょう.


「透明で平面的なアメリカの社会」と「空間の原理によってつくられた人間像」は空間の原理が支配する.「無意識の情念」「個人の内部にひそむ暗鬱な情念」「肉体的な情念」は時間の原理が支配する.アメリカ文学において社会 = 精神を否定する場合,それは空間の原理の否定であり,それを否定する無意識,肉体,情念などは時間の原理が支配する.それらは信頼や肯定の対象となっている.一方,ヨーロッパにおいては社会 = 精神と,それらを破壊する無意識や肉体の情念とはともに信頼や肯定の対象とならない:精神の否定は精神によってなされる.

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【要約の範囲は逸脱するが,さらに福田の論を圧縮しよう:社会の根底には精神があり(社会 = 精神),個性もまた精神である(個性 = 精神).それゆえ精神の否定は精神によってなされる.ヨーロッパではそれらはともに時間の原理に規定される.ゆえにいずれにせよ時間の原理からは逃れることができない.あるいは時間の原理さえ肯定・信頼の対象とすることができない.ここにヨーロッパ文学の「絶望」がある(そして,無意識や肉体や情念さえも,すべて時間の原理に支配される).そして,それゆえにこそ時間の原理を超越した「個性」が希求される】

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ヘミングウェイの手法は「ハードポイルド・リアリズム」である.ヘミングウェイは精神や思考を肉体や行動への無意識的信頼によって否定する.ヘミングウェイの作品はアメリカ文学の伝統たる通俗性をたもつ.ヘミングウェイの人物は闘争的であり,自己の負った痛手を無視して敵とたたかう,あるいはわざわざ敵をみいだす.「闘争は肉体的行動の場であって,精神の関知するところではありません」.弱肉強食の世界において,一切の(人間的な)善意や思想が否定される.そしてその一切の否定のあとに開けられた「否定のあとの空洞」を肉体的情念が埋める.
しかし「老人と海」では,そこを埋める肉体的行動が「精神的に肯定されることによって,倫理への通路がひらかれている」.それでいて「ハードボイルド・リアリズムは手硬く守られて」いる.「老人がじっさいにおこなったこと,そしてその周囲にたしかに存在した事物,それ以外はなにも描かれておらず,またそれだけはひとつ残らず描かれているようなたしかさ」がある.「ヘミングウェイはそういう純粋に客観的な外面描写を用いて,かれ自身の主観が認めうる理想的な人間像を描いた」のである.その人間像は叙事詩的英雄に酷使したものであり,「老人と海」はギリシア悲劇のようなカタルシスをもたらしうるものとなっている.