「『老人と海』の背景」について

「われわれはよく、作品のなかに、作者の個性を、あるいは登場人物の個性を求めます。それがなにを意味するかと申しますと、ある特殊な遇去の経験を背負っているひとりの個性が、別の経歴を背負っている人物や環境と出あって生きにくさを感じながら、悩むことによって、ますます自己の特殊性を、いわば個性を発揮するのがおもしろいというわけであります」.福田によれば,読者は作品に作者や登場人物の個性をもとめる.それが「おもしろい」からである.
「だが、ひとびとはそれだけでは満足できなくなってきました。近代の個人主義は、他人とはちがう自分という意識をめいめいが自覚することを要求するのです。AはB'に棲んでいるBとちがうことはもちろん、おなじA'に棲む他の人間ともちがう、まぎれもないAでありたいとおもいはじめたのです」.近代個人主義はひとびとが個人であること,A'という環境や経歴に規定される同類たち【A's】とはことなる個性を,その個性を自覚することを要求する.これが近代個人主義の要求である.

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【‘他の人間とは異なる’というのは unique(単一的)であるということか,それとも,original(起源であること,独り始めることとしての‘独自性’)ということか】【個性の語の辞書的な英訳は individuality.個性 = 不可分性.ここには殊更に他人とは異なるというニュアンスはないようにおもえる.それとも同類があるということは,それらの同類を一括りにする性質をそこから分離しうるという点において分割可能(分析可能)ということなのであろうか】

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おなじ言動に明け暮れするわれわれは、その表面はおなじ言動と見えるもののかげに、じつはちがった心をもっているのだとおもっています。じじつそうでありましょう、が、またじっさい以上にそうおもいたがるふしがないでもありません。
 妙ないいかたですが、十九世紀のヨーロッパの小説は、そういうわれわれの個人主義的な要求にこたえて出現したものであり、その要求にそって精徴な心理分析を展開していったのであります。その結果、読者は一種の知的虚栄心を満足させられます。というのは、その作品に描かれた複雑な心理の動きをすみずみまで理解し、それがそのまま自分の内面心理にあてはまると感じた読者は、この作品こそ作者が自分のために書いてくれたものだと感激するでしょう。よくもこれほど自分の心の内部を表現してくれたとおもうでしょう。しかも同時に、その作者が人間心理の深いひだにたちいっていればいるほど、そこに描かれたものが一般平均人の心理ではなく、特殊な、あるいは高度に洗練された人間のものであるとおもいこみます。
 いうまでもなく、これは矛盾です。読者のだれもが、これは一般人とはちがう「自分だけ」の気もちを描いてくれたものだと感じるとすれば、それは「自分だけ」の気もちではないはずです。そう考えてくると、個性とはいったいなにものか、どうもわけのわからない代物だということになる。ヨーロッパ近代小説は個性を発見し、個性を描きだし、個性的であろうとめざして、あげくのはてに個性を見うしなってしまったといいえましょう。


近代個人主義の要求にこたえて出現したものが19世紀ヨーロッパ文学である.読者は作中の登場人物の心理の動きを「自分だけ」の内面心理と同一視する(「自分の内面心理にあてはまる」もの,「自分の心の内部を表現し」たものだとおもう).複数の読者たちによってそうした同一視がなされることは矛盾をはらむ【そもそも登場人物の個性を自らの個性と同一視することそのものが「自分だけ」の個性を要求することからすれば矛盾している】.
福田の論のこの箇所にとくに違和感をおぼえる.19世紀ヨーロッパ文学に内在する矛盾を導くために福田がもちいる前提:(読者が,ある作品における登場人物の心理 = 個性の描写を)「一般人とはちがう「自分だけ」の気もちを描いてくれたものだと感じる」という前提がソマミチ自身の感覚と合わない.どこが合わないのか.たとえば作品において展開されている心理描写が自らの内面と‘近い’と感じることはソマミチにもしばしばある.しかしそれでも,そこに描写されている個性を「自分だけ」のものとは思いはしない.そこにソマミチが見出すのはいわば自分の同類である.描かれているのはいわば「自分たちだけ」の性質であり少なくとも「自分だけ」の性質ではない.このように感じる.

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【この感覚の違いは彼我の時代の差によるものかもしれない.ひとの(わたしの)心を知るために文学や文学者が頼りにされていた時代――個性のモデルとして,フィクションの個性がマネキンのように輝いていた時代――と,そうではない時代】【われわれ(読者の,あるいは読者と作者との)想定――「自分だけ」の気持ちを分析し描写する力 power の持ち主としての作者の想定.読者が「この作品こそ作者が自分のために書いてくれたものだと感激する」ということは,このような想定を示すものであるように感じる】【外面(あるいは日常の生活習慣,経歴,言動)にはあらわれない〈わたし〉の内面(個性)を知っているものとして作者は想定される.その作者が表現する登場人物の内面は〈わたし〉の内面を表に現した express(あるいは外に晒した exposure)ものであり,それは〈わたし〉のために,そのためだけになされたこと,特別の恩寵である――作者を特別な存在として位置づけるからこそ,その作者の書物のなかに〈わたし〉をみいだすことが感激に値する】【あるいは,そんな作者との共犯関係に入る――こんな気持ちがわかるのは世界に〈わたし〉と〈あなた〉だけ】

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さらに福田は論を以下のように展開させる:
第一次大戦後の「意識の流れ」派(イギリス),「自意識の文学」(フランス)は「要するに個性を追求していきづまったところに現われた一種のあがき」である.「AもBもけっきょくおなじものとしかおもえなくなったとき、さらに個性的なもの、特殊なものを追求しようとすればAやBをながめている自己をとらえるよりほかに手はなくなります」.AやBに対象として差がなく,その描写も限界に至ったとき,「残された唯一の手は、ABをながめるながめかたに、その作家独自の個性をだすこと」である.
この論の展開にも違和感を感じる.19世紀ヨーロッパ文学においては個性を要求するのは読者であり,第一次大戦後のヨーロッパ文学において個性を追求するのは作者である――個性を求める主体がいつのまにか読者から作者へとすり替えられている印象をおぼえる.

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【19世紀ヨーロッパ文学においても読者(われわれ)の要求が背後にありながら,やはり作者が個性を追求していた.それとおなじく,一次大戦後のヨーロッパ文学においても作者による個性追求の背景には読者(われわれ)の個性への要求があるのである――と読むことができるだろう】【あるいは,そもそも個性への要求は‘時代の雰囲気’といったものであり,その時代のなかに生きる〈われわれ〉として,作者も読者も等しく個性への要求に駆り立てられ,個性を追求していたのだ.ただその追求のためになされたことが,一方では作品に個性(内面)を描くことであり,一方では作品に個性(内面)を読みとることであった,ただそれだけの違いだ――と読むことができるだろう】【それにしても19世紀ヨーロッパにおいて作者と読者,および作者でも読者でもない人々の比率は,それらの関係はいかなるものであったのだろうか】【19世紀においては個性を知るもの――あるいは個性をもつもの――として〈われわれ〉とは異なる立場にあった作者が,一次大戦後には〈われわれ〉とおなじく個性を求める立場へと,その立ち位置を変えてしまった――このように読むことができるようにもおもう】

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さて,「ABをながめるながめかたに、その作家独自の個性をだすこと」が成功したとしよう.しかし――

そうまでして発見しえた個性というものに、われわれはどこまで信頼がおけましょうか。もちろん、それを描いた作家の個性と才能とは信頼できますが、そうなると、われわれは個性的であるためには、芸術家にならなければならないということになってしまう。日常生活の場では、そうまでして得られた個性というものを信頼するわけにはまいりません。卑近な実生活の場では、行動によって外面的に形を与えられた心理しか、われわれは信用していないのです。


この福田の論の展開は,上に記したような違和感をふまえて読むとおもしろい.「われわれは個性的であるためには、芸術家にならなければならない」.もはや個性への要求にこたえるには,AやBの対象をながめる「ながめかた」【視点の設定やカメラワーク】に個性を求めるしかない.それは「芸術家」になるということである【個性への要求にこたえるためには作者になるほかない】.そして,そこで得られる個性は「日常生活の場」で信用されるものとはことなる【credit たりえない.世間に通用しない.流通しない】.それゆえ「意識の流れ」派や「自意識の文学」の作品は「われわれの生活とつながらない」.こうしてヨーロッパ文学は「個人主義の限界」に至る.

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そもそものはじまりは「われわれは、その表面はおなじ言動と見えるもののかげに、じつはちがった心をもっているのだとおもって」いること,その「ちがった心」を求めることにあった.これが近代個人主義の要求である.しかし「行動によって外面的に形を与えられた心理しか、われわれは信用していない」.この見解によるならば,近代個人主義の個性への要求がみたされずに限界に至るのは必然の帰結である――と考える.「表面はおなじ言動と見えるもの」たちの各々に「ちがった心」があるといわれても,そのちがいが外面的に形を与えられない限り――表面においておなじ言動であるかぎり,われわれはその「ちがった心」を信用しない.
【近代個人主義,およびそれにしたがい生きる人々について矛盾を導くような仮定を設定し,そしてその矛盾をあらためてとりだしてみせた――さながら帽子からハトをとりだしてみせる手品師のように.このように福田の論を評価することもできるかもしれない.
ただし,それはまた‘ためにする’評価であるようにも感じる.ともあれ,福田の認識に個性(内面や心理)をめぐっての「作者」と「読者」の位置づけの歴史的な転変が感じられる点が面白い】