近ごろ読んでいる本

『自我の哲学史』の第II部第1章は「宮沢賢治の自我論」と題されている.そこでは賢治の自我論(自我は「心に次々と浮かんでは消えゆく心象の一つにすぎない」)を示すものとして「春と修羅 序」がとりあげられている:『春と修羅』冒頭で賢治が,「わたくし」とは「せはしくせはしく明滅」する「因果交流電燈」のひとつの照明であると言明するとき,その「わたくし」は明らかに西洋近世哲学の「本体」論的な自我に対置されている(p.156).酒井によれば「賢治は「自我」についても,西洋哲学の基本的議論や範疇をふまえたうえで,これと対決する独自の自我論を目指そうと」(p.161)したという.それは「多層的,多元的な「自我」観」であり「自我を,複数の心たちから成り立っているモザイクのようなものと解する思想が,わが国には存したし,存するのである」(p.166)という.「日本人に自我はいらない!」という本書の帯の言葉には,極端にいえば嫌悪感をおぼえる.日本人なるものを特別視する観方がどうにも好きになれないことによる【なぜ好きになれないのかについては,自分でもまだよくわかっていません】.しかしそれが「西洋哲学の基本的議論や範疇をふまえたうえで」なされることであれば,それは好悪の情に依らず聴くべき見解であるだろう.
『オラ!メヒコ』における,マジックマッシュルームを用いた儀式を体験するくだり(とくにそこでなされている解説)は興味ぶかい.機会があれば考えたことをまとめようとおもう.いまこの文脈で気にかかるのは,たとえば以下のような文脈で著者(ランディ)が述べるような感慨だ:(自分はひどく残忍で下劣な人間ではないかと悩んでいた.この数年のあいだに兄をはじめ親しい人びとが死んでゆく一方で自らは作家として生きていた.そこには罪悪感めいたものもあったが)生きていることへの優越感もあった.私は死んでいない.生きている.もしかしたら選ばれた人間として……って.そして,そう思い上がっている自分のことを許せない自分がいる.その罪悪感.でも見て,この死者の祭りを…….私の悩みなんて頭でっかちの日本人のたわごとだよね.生きていることも,死んでいくことも,メキシコの人たちにとっては等しくすばらしいことなんだよね.死ぬことは,負けじゃないんだ(p.174).「頭でっかちの日本人」というレッテルがなにを指しているのかわからない【この著者の作品は他に‘アンテナ三部作’を読んだのみであり,ゆえに理解がおぼつかないのかもしれない】.わからないのであるが,ただ‘頭’に囚われているとして,その呪縛から逃れるために‘頭ではないなにか’へと,‘日本ではないどこか遠く’へと向かうことは,自らを喰らう怪物からただ目をそむけているにすぎないのではないのか.‘頭’の呪縛を解き解すためにはむしろ‘頭’をこそ使用するべきではないか.それこそが「日本人の言葉,日本人のやり方で祈りの方法を発見」(p.163)することにつながるのではないか――などという感慨を抱いた.【関連:真木悠介気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)』;「文字による知識や思想は空しい,といったたんなる自己否定は,文明世界の無反省な自己肯定の単純なうらがえしにすぎない」(p.80).インディオの呪術師ドン・ファンカスタネダに告げる:ノートブックは,いわばおまえのもっているただひとつの呪術なのだ(p.78)】