知の欺瞞

時がたつにつれ,ラカンの著作は,言葉遊びと断片化された統辞法をないまぜにすることで,ますます判じ物めいてきた.これは多くの聖典に共通する特性である.そしてこれらのテクストが,弟子たちによる敬虔なる教義解釈の基礎となっていくのだ.こう見てくると,つまるところ,われわれは新たな宗教を相手にしているのではないかと疑っていいようだ.
(pp.51-52)

ながいあいだ直視することを避けていた『知の欺瞞』を読む。
件の先輩によれば「たしかにクリステヴァの数学はデタラメが多いけど,しかし,それでも詩や言語の分析に彼女の論が有効であることは確かなんだよ」という。‘『知の欺瞞』の著者たちはラカンの言わんとしていることを全く汲み取ろうとしていない.それではラカンのコトバが意味不明のジャーゴンにきこえて当然だ’という旨の(再)批判もある.
それでも『知の欺瞞』が提起する問題:一部の‘現代思想’では権威付けのために,自然科学や数学が濫用・誤用されているのではないか,という問題は重要だとおもう.
ラカン(派)の特徴は,実験観察を蔑ろにしてまで「理論」(形式的議論と言葉遊び)を重んじることだ.しかしそもそも「精神分析学は,科学的な基礎がありうるとしても,かなり日の浅い科学の分野である」.それゆえ,理論の一般化のまえに,まずはその主張について,経験・実験・観察と照らし合わせて妥当性を検討すべきだろう’という旨の指摘は,あらためて胸に刻んでおきたい.