2.現象学的精神病理学

(各論は略)
a.個々の業績(分裂病論)【略.(ヤスパース:了解不能),リュムケ:プレコックス感 Präcoxgefuhl,ミンコフスキー:現実との自然な接触の喪失,ビンスワンガー:自然な一貫性の解体,ブランケンブルク:(超越論的自己の機能の障害による)自明性の喪失;「コモン・センス sensus communis」の障害,木村:「ノエシス的自己」の障害,安永:ファントム短縮)

b.共通点【略】【いわば「わかろう」としても「わからない」こと.たとえばブランケンブルクの述べる「自明性という存在論的モメントの喪失」という事態.それは症例アンネ・ラウの「あたりまえのことがわからない」という訴えに現れる】.

c.考察
1)リュムケが述べるプレコックス感.それは精神科医のほうの一人よがりな(一人的な)印象にすぎないかもしれない.プレコックス感が「分裂病が,「誰かが〈一緒にいる〉という体験を通じて,その一緒の場所に現れてくるもの」という次元をもつことを示す」のであれば,精神科医分裂病者との関係(コミュニケーション,ひいては「あいだ」)においてのみならず,他の「誰かが〈一緒にいる〉という体験を通じて,その一緒の場所に」おいても「プレコックス感」は現れてくると推測できる.そしてこの推測を証拠だてるのは「誰かが〈一緒にいる〉」という場所における病者の体験(その報告)や言動であろう.このことを木村[1980]は以下のように論じる【略】
【こうして,分裂病者の体験報告や言動(例:あたりまえのことがわからない)から,あらためて分裂病の本質(例:自明性の喪失)が抽出される;いわば,それは診察者の側の「プレコックス感」の(再)確認である】.

2)「プレコックス感」すなわち「相手の人格全体との対人的接触に至らないこと」「奇妙なためらいと疎外感」,あるいは「自明性の喪失」により「あたりまえのことがわからない」という体験.これは「私」にとって“あたりまえ”の体験である;なんらかの「ぎこちなさ」や「わからなさ」は「私」が他人や世間との接触においてほぼ日常的に感じていることである.それでは私は分裂病【とりわけ単純型分裂病.略】なのだろうか.おそらく違うということにはかなりの確信がある【ここでは,たとえば「私」は幻聴を聴いたことはない,「させられ体験」もない,などと症候学に頼ることになる】.「私」が対人接触や世間との交渉(道ですれ違う知り合いとの挨拶,親族の集まりでの振る舞い,就職活動,コジャレタ飲食店における注文,等々……)において感じる「わからなさ」「自明性の喪失」はなにか.それは,自らの言動は完全であるべきだという過剰な期待や他人の拒絶を先取りすることによる“自縄自縛”によるものだろう.
では「私」の「自明性の喪失」と分裂病者の「自明性の喪失」の違いは何か.どのように識別されるのか.【木村[1980],躁うつ病神経症で問題となる「あいだ」と,分裂病において問題となる「あいだ」との違い.略】