1.精神医学における現象学

哲学としての現象学と精神医学における現象学的方法のちがい:精神病理学-現象学は「二人的」「前述語的」(中島[1999])(現象学とは【略】 → [id:somamiti:20050807#p1])
a.二人的現象学
哲学における現象学は「一人的」であり精神医学における現象学現象学精神病理学)は「二人的」である:

たとえばリュムケ(Rümke,H.C.)は分裂病について「分裂病くささ Präcoxgefuhl,プレコックス感」を記述した.これは「分裂病患者と出会ったときに経験ある精神科医が感じる,ある独得の印象のこと」であり「相手の人格全体との対人的接触に至らないこと」「奇妙なためらいと疎外感」などとされる.リュムケの記述は「分裂病が,「誰かが〈一緒にいる〉という体験を通じて,その一緒の場所に現れてくるもの」という次元をもつことを示す」ものであり「のちの現象学精神病理学は,この次元についての理論的解釈を1つの軸として進む」.そして木村敏はRümkeのいうプレコックス感を以下のように説明する:プレコックス感は,患者のノエシス的自己の動きをそのまま反映した「あいだ」「ノエシスノエシス」の変化が,診察者にも直接与えられたものである.「あいだ」「ノエシスノエシス」とは【略】.そして

「あいだ」の変化を診察者はノエシスのままいわば感受せざるを得ない(換言すれば,被る).木村は,哲学における現象学が一人的現象学であるのに対して,精神医学における現象学は二人的現象学であるところにその特質があると述べ,このような「あいだ」の構造に二人的現象学の成立可能性をみている.二人的現象学というものが成立するということは,要するに,他者における変化をノエシスの動きとして直観するという可能性が成立するということである.このことは,Husserlが他者の心の動きというものを本質直観するとは,それを現象学者の意識の中でノエマとして構成することだと考えていたのと比べると,ある意味で画期的な認識であるといえる.
(中島[1999],p.386)

【「Husserlが他者の心の動きというものを本質直観するとは,それを現象学者の意識の中でノエマとして構成することだと考えていた」という見解の典拠がよくわからん】

b.前述語的現象学
フッサール現象学(とくに『イデーンI』):ノエマ現象学.述語レベルの現象学ノエシス-ノエマ連関におけるような「述語的」なレベルに問題の中心をみる.
一方,「歴史的にも,もっとも現象学的方向を徹底して追及した」ブランケンブルク,木村の“現象学”の特徴:「前述語的」なレベルに問題の中心をみる.この「前述語的」レベルは述語的レベルの可能性の条件である.いわばノエシス現象学.前述語レベルの現象学である.
たとえば「妄想問題ではなく,妄想成立の可能性の条件としての分裂病者の存在構造一般に,分裂病の本質をみようとする」アプローチは「分裂病者の存在構造をノエシス的次元においてとらえるもの」,すなわちノエシス現象学.前述語レベルの現象学である.【略】