犬の幾何学(1)

――という私の思惟や認識がすでに既存の学を基盤として成立している.その認識の基盤にある学はまた,その学を含む時代におけるコモンセンスや方法論から利益-関心 interest や束縛を受けとっている;学を内包する「世界」を基盤として成立する.さて‘このような批判的思考は厳密に批判的な学が成立するより過去には不可能であった’と(この)私は(現在)考える.この「私の考え」そのものがすでに(この)私をふくむ(現在の)世界を基盤として成立している.それゆえ(この)私-たちもまた数百年後において同様の批判【私的な認識の基盤としての学,さらのその基盤としての「世界」のことを忘却している】をうける可能性がある――と「ここ」まで考えた時点において,この〈客観意識〉そのものがこの私をふくむ(現在の)世界における(特有の)思考法であり,それゆえ数百年後には〈客観性〉の欠如を指摘される可能性がある――と(この)私は考える.しかしながら,それをまさに思惟している「意識」そのものを思惟の対象とするとき,(この)私は「わからない」という眩暈に襲われる.(霧間鷹二郎「再帰的関数と固定指示子」『犬の幾何学』)

大嘘【関連:id:somamiti:20060228,コメント欄】

                    • -

(1)if イヌヒトが進化して文明を持つ, then イヌヒトは嗅覚に幾何学性を感じてそれを数値化する.
(2)if イヌヒトが嗅覚に幾何学性を感じてそれを数値化する, then イヌヒトは幾何学-数値化によってさらに進化する.

嗅覚の幾何学性-数値化とはなにか.「幾何学性」を感じるとは「何」を感じているのか.数値化されるところの「それ」とはなにか【「進化」や「文明」とは如何なる事態を指しているのか.「誰」がその「進化」や「文明」の高-低,遠-近を判別し,測定しているのか】.

              • -

幾何学 geometry の語は土地 geo と測量 metry からなる.「英語の geometry は古代ギリシア語ではじめ“地を測る”測量術を表わす言葉であったが,後転じて幾何学または一般に数学を表わす学問の名前になった」(現代数学小事典 (ブルーバックス),p.236).そえゆえ,幾何学性を感じる = 「土地」を感じる,「それ」を数値化する = 「土地」を「測量」する,と措いてこれから考えよう.
2点以上の間の相対位置を求めるには,これらの点が共通に含まれる座標系を設定し,点間の座標差を測定する.2点が平面上にあれば最少二つの測定量が,空間にあれば少なくとも三つの測定量が一般に必要である.この測定量としては角度と長さの二つの基本量がある.角度の測定は比較的容易である.それゆえ「望遠鏡の発明」以来,数学の発展とともに現在に至るまで広く用いられている.一方,距離測定は三角測量などの角測定に長さを与えるものとして重要な量であり,角度測定よりも古い歴史をもつ(測量「世界大百科事典」).

  • -

殊更に「嗅覚」について問題設定をおこなうのはなぜか.そこには長さの測定――距離の測定(認識)はもっぱら「視覚」によってなされるという前提が潜んではいないか.たとえば事故などで急に聴覚を失った人は近づいてくる車の距離感の把握にしばしば困難をおぼえるという風説を聞いたことがある;交差点をわたる私はなによりも近づいてくる車の「音」やときには「地響き」から【振動や響きの感覚と近づいてくるもの-遠ざかってゆくもの(私の周囲を往き来するもの)との関連づけにおいて】対象物の「速さ」や「大きさ・重さ」を知る.
【膜迷路のこと,内耳神経 VIII のこと:膜迷路は卵形嚢・球形嚢(平衡感覚),半規管(回転感覚)および蝸牛管(いわゆる聴覚)の3部からなる膜性の閉鎖管系である(579) / 平衡感覚は前庭系(平衡覚・回転覚)とともに視覚系・深部感覚系とも関係する.これらの感覚情報が小脳・脳幹で統合されることで身体の平衡覚が保たれる(590)「解剖学講義」 / 内耳神経の束は前庭神経の束と蝸牛神経の束からなる】
――ヒトが聴覚を幾何学-数値化して把握することはあるのかという問い,聴覚による空間把握(およびそのカルテジアン cartésien 座標化)があるのかという問い,聴覚による感覚対象の遠近の把握や方向の把握がありうるのかという問い.
【‘身体空間’のこと――あるいは身体図式(ヘッド,シルダーなど);姿勢の把握,手や足が何処にいるのかということの把握(だから私の手足よ今はここにおいで).触覚による空間の把握――触覚による幾何学はあるのか.深部感覚による幾何学はあるのか.体性感覚野における体部位再現,どこを触っているか,どのような姿勢をしているのか,そのような空間(?)の把握――そこにはすでに測量の,ひいては幾何学の可能性があるのではないか.空間に生きていること,空間を前提としていることがすでに空間を精密に把握する【密画化】あるいは理念化・数値化する「幾何学」の可能性を示してはいないか.‘人間の(おのれの,自然な,ありのままの)感覚’に安住し「嗅覚」には幾何学はありえないと断じることの「素朴性」――とフッサールなら批判するだろう【嘘,かな】】

              • -

〈客観意識〉とはなにか.その欠如を批判されるところの〈客観性〉とはなにか.
前提1:客観性は文化に束縛される【文化⊇客観性;客観性ナラバ文化デアル】
前提2:文化は時とともに変化する
∴帰結:客観性は時とともに変化する.
A → B,B → C,∴A → C.形式上,この論に誤りはないように「見える」.なのにこの論の「帰結」にオカシさを感じるのであれば,その感じかたにはすでに命題 A → ¬C. がインストールされている.いわば公理として設定されている.すなわち「客観性は時とともに変化しない」.この,時とともには変化しない〈客観性〉を,仮に「真理」とよぼう【ここで「心理」と表記しないのは,「心理」であればむしろ(略)】.すなわちこの論にオカシさを感じるとき,あるいはこの論を呈示すればそこにオカシさが見いだされるのだと想定するとき,そこには暗に永遠普遍の「真理」が前提されている.
未来において,ヒトはまた「この私」と同様にその前提にたってモノゴトを判断するだろう;なんらかの「真理」と照合して,ある命題についてそれが「真理」か否か(「主観的」か「客観的」か)を判断するだろう.そのことだけは時を超えている――という前提があるようにおもわれる.何らかのマチガイが明らかになる(エビデンスをもって示される)という思考,たとえば全てのものは時とともに移ろいゆく,全てのものは風のまえの塵に同じ,たとえ「真理」といえども例外ではない,そのような「真理」に「欺かれる」ヒトの愚かさよ――という思考そのものがすでに‘この私 = 主観[にとっての世界 = 現象]’と,それとは異なるイデア的な領域に仮構された【フッサール?】もしくは‘この’視点とは異なる視点において成立する「密画」【大森?】のうちにはらまれる「真なるもの」あるいは‘不変項’との比較を前提している【このような発想の基礎を,大森もフッサールもともにデカルトによる‘感覚の欺き’批判にみている,そのように考える】.

              • -

つづく.

  • -

【補記:記号は目で見るもの,再認-同定は目でみておこなうものという前提,「概念/聴覚映像」の対,‘聴覚’にもとづくシニフィアン,コウモリの幾何学