危機(第一部)

第一部.長いです.

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世界は,腐っている【嘘】――もとい,いま哲学は危機にある.それは近代の全学問の危機である.すなわちヨーロッパ的人間性の危機である(31).なぜか.それは【認識する理性が「存在者(在るモノ)がなんであるか」を規定する(何であるかを認識する,意味づける)というのに】現代の実証主義的な学(いわゆる客観的な自然科学)が理性の問題を取り落したことによる.理性の問題とは,認識や価値評価,倫理にかかわる学【すなわち哲学】のテーマである.なお「このとき理性とは「絶対的な」「永遠の」「超時間的な」「無条件に妥当する」理念や,理想を指す名称」である(25)【永遠なのか真実か,時の流れは続くのか,いつまでたっても変わらない,そのようなものが在るだろうか】.
哲学において,人間は理性的存在として問われている.歴史はその「意味」すなわち理性について問われている.神への問いは世界の「意味」の問題をふくんでいる;「世界におけるすべての理性の目的論的源泉としての「絶対的」理性の問題」なのだ(25).ここで意味とは,真理そのものと,それと相関的に存在者(オントース・オン)と呼ばれているものへの,あらゆる事物・価値・目的の規範的関係である【さしあたっては,‘こんな定義ってなんか「意味」あんの?’と問うときの「意味」】.そして理性とは意味を与えるものである(32)【神は光をあらしめた.神は万物をあらしめた.神はそれを「見て」「よし」とされた】.
実証的な学問(自然科学)は自然における存在者(モノ)の真理をさぐる学である.モノのフィールドについての真理をさぐるのが事実学である【以下,これを自然科学としよう】.自然科学は形而上学【以下,哲学】があってこそ意味をもつ.なぜか.認識する理性が「存在者がなんであるか」を規定するからだ【それは「何」であり「何のために」あるのか】.理性と存在者は分けて考えることはできない(30)【見るものと見られるものは分けて考えることはできない;観測主体 subject と観測対象 object は分けて考えることはできない】.しかし理性【主体性,主観性】を問う哲学はいまや危機にある.だからこそ近代自然科学は「意味」を失い,ひいては人間性【人間・人類とは何か,何のために存在するのか】が見失われているのだ.

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現代人の世界観は実証科学 = 自然科学によって規定されている.自然科学のキラメク「繁栄」により目をくらまされている.しかし事実学は事実人しかつくらない【「意味」を忘れた自然科学は「意味」を知らないヒトしかつくらない】.イマドキの若者は(自然)科学を勉強してなんになるのさという不満を口にする.このことが示すように,いま忘却されているのはそもそも人間(個人や人類)が生きること全てに意味があるのかという問いである.そして,理性的な人間はこの【哲学の】問いこそを全てに優先して問うべきなのだ.この問いこそが自由な人間――自己ならびに自己の環境を理性的に形成するいろんな可能性をもつ人間,自由な主体としての人間にかかわるものではあるまいか(20-21).

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さて,ではこの「危機」の時代にあって,これからの哲学はどうあるべきか.【そのために,まず近代における自然科学と哲学との関係をみていこう.さしあたっては形式的数学の理念,デカルトに由来する合理主義,ガリレイによる自然の数学化がキーワードとなる】.

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フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1935-36),細川恒夫,木田元訳(中央公論社,1995).ということで読んだのは文庫本.ページ数は484(付録もあわせると534)となかなか厚め.うち第一部は43ページまで.先はながそうです.
こうしてみると「イマドキの若者」は今も昔もという感慨がうかびます【以下,それにかかわる連想】:
生きてるって意味あんの.ないじゃん.勉強(自然科学)って意味あんの.ないじゃん.オイオイ君たち,「意味」がないというが,そもそも「意味」とはなにかね.自然科学が人類の役にたつ,人々が自然科学の恩恵によって幸せになれる.それこそが「意味」じゃないか.ああそうですか.しかし人々の「幸せ」が何かの役に立つんですかね.ひとつ「幸せ」の利用価値を,幸せの「意味」を答えてくださいよ.そもそも「幸せ」って何なのですか.
――哲学を忘れた事実人には答えられまい.科学技術(単なる技術にすぎない学)のお蚕ぐるみにまどろんでいる君たちは,いわば太ったブタなんだよ.そうフッサールはいう【嘘】.
それゆえに私たちは科学技術による物質文明の一面的豊かさを反省し,忘れられていた心の豊かさに,「ほんとうの幸い」に目を向けなければならない【だけれども,ほんとうの幸いとはなんだろう.わからない】.「危機」の時代にあって,内心の豊かさをまず回復せねばならない.事実人ではなく哲学人を育てよう.太ったブタより痩せたソクラテス.貧しくったって個性が大事.情操教育により心の豊かさを育てよう.真の人間性を回復しよう.わんぱくでもいい思いやりのある子に育ってほしい――という批判を,フッサールはよしとしないだろう.そこでモデルとなる「自我」や「こころ」の姿は,あくまで客観化された〈わたし Ich〉や〈こころ mens = 魂 animus = 知性 intellectus〉にすぎないからだ(144).それは,その Ich や mens を含めた世界をオブジェクト化する基盤 subiectum たる主観 subject すなわち自我 ego ではない(203,276,292,(365,372,379)).

衣食住とか,あるいは心の豊かさや優しさやふれあいやトラウマだとか,知性や教養や品位だとか,メチャイケテルとか生きがいだとかリアリティだとか,問題はそんなことではない【嘘】.そもそも学的な認識が根源的な「意味」を喪失したこと;世界-現象をあらしめる主観性の領域にたいする根源的な問いが忘却されていることが問題なのだ【本当】.
そして,その問いをなす学こそが超越論的現象学であり,それゆえに超越論的現象学はすべての学(自然科学や現象学以外の人文科学)の基盤となり,それらの学の営みに「意味」を与える唯一の学なのだ.

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なにいってんのかマジわかんないし【ちょいマジ】