族長の秋

集英社ラテンアメリカの文学13」(ISBN4081260133)】

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解説によればガルシア = マルケスの作品において,もっとも注目すべきものは『百年の孤独』と『族長の秋』の二つの長編だという.
百年の孤独』においてガルシア = マルケスは「従来の作品における抑制のきいた簡潔な文体とはまったくようすの違った、熱っぽい饒舌な文体を駆使しながら、現実と空想とが渾然一体となった魔術的な世界を現出させ」た.それは短編集『エレンディラ』における「現実的なものと驚異的なもの、日常的なものと空想的なもの、合理的なものと超自然なものとの無碍の相互浸透を可能にする、長くて屈折した文体」をへて,『族長の秋』にいたる.「カリブ海沿岸の諸国の作家たちには、ラテンアメリカの現実そのものが驚異であるという意識に基づきながら、想像力を奔放に働かせて現実的なものと幻想的なものを同一次元で混融させる。いわゆる魔術的リアリズムという共通した傾向がある。ガルシア = マルケスのこの『族長の秋』は、まさしくその見本のような作品である」.
「不思議な一族の年代記」である『百年の孤独』がおとぎ話であるとすれば,『族長の秋』はくりかえされる夢である.「『百年の孤独』も挿話の盛りだくさんな作品であるが、それらはおおむね、直線的な時間の軸に添って物語られており、専門的でない読者も困惑せずにすむ」.一方で『族長の秋』の時間の進行は「螺旋的」である.そのテクストは「第一章、第二章というぐあいにはっきりとした章立てはなされていないものの、空白のページによって6つの部分に分かたれている。その一つ一つが複数の異なる語り手によるものだと考えられるが四番目のものを除いて、残りのものはすべて、亡き大統領の見映えのしない遺体のことから話が始まる。そして時間の流れへの逆行と巡行とを複雑に繰り返しながら展開していく」という形をとる.

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『族長の秋』はかなしい夢のようだった.とくに以下のくだりにふれたときから,かなしさの印象は亡霊のようにつきまとってはなれなかった.

港だ、ああ港だ! 港、と言ったけれど、その桟橋は海綿のようにぶよぶよで、そこに繋がれているのは、実物よりも長くて陰気な印象を与える、古ぼけた海兵隊の舟艇だけだった。まるで何かに怯えたように駆け抜ける小さな馬車。それを辛うじてかわしたニグロの女仲仕は、世にも悲しげな目で港を眺める、たそがれた老いぼれを見て、死神に出会ったと思ったのに違いない。大統領さまだよ! 腰を抜かさんばかりに驚いて彼女は叫んだ、大統領バンザイ! 彼女は声を張り上げた、バンザーイ! 中国人経営のバーや食堂から飛びだしてきて、男も、女も、子供も叫んだ、バンザーイ! 馬の脚が止まり、馬車が立ち往生すると、彼らは最高の権力者に握手を求めた。当然のことながらとっさに武器をかまえた副官の腕を辛うじて押さえた大統領は、緊張した声で激しく叱責した、馬鹿なまねはやめろ、中尉、連中はわしを愛しているんだ、放っておけ! この日だけでなくそれ以後も民衆が示した敬愛の行為に、大統領はすっかり感激してしまった。祖国を愛するあの連中に、ぜひ、この姿を見せてやりたい。オープンカーで市中見回りに出かけるという思いつきを捨てさせるのに、ロドリーゴ・デ・アギラール将軍はひと苦労した。大統領は、港での出来事は自然発生的なものだが、あとのそれは、危険を犯さずに喜んでもらえるように、彼自身の秘密警察が仕組んだものとは露疑わなかったのである。
秋を目前に控えてめぐり合った春風のような愛に浮かれた彼は、久方ぶりに首都の外へ出ることにし、国旗の色で塗り分けられた古い専用列車の運転を命じた。だだっ広いだけで惨めったらしい国土の断崖絶壁を這い登るようにして、列車は進んだ。アマゾン特産の蘭やニガウリの茂みを掻きわけ、レールの上で眠りこけている猿や極楽鳥やジャガーを蹴散らして走り、やがて、生まれ故郷の荒野に点在する、寒冷で無人に等しい村々にたどりついた。どの村の駅にも陰気くさい楽隊が待ち受けていた。聖三位一体の画像の右手に座った名も知らぬお偉方のために、弔いの鐘めいたものが打ち鳴らされた。歓迎のプラカードが用意され、しなびたインディオたちが奥地から駆りだされていた。大統領専用列車の陰気な暗がりのなかに鎮座する権力者を拝むために、彼らは山を下ってきたのだが、間近に寄ることのできた連中でさえ、うつけたような目を見ただけだった。わななく唇と、これと言って特徴のない手のひらを見ただけだった。権力の辺土でしきりに振られるこの手を、護衛のなかの一人が懸命に窓から引き離そうとした。閣下、気をつけてください、お国にとってかけがえのない、大事なお体です。ところがその閣下は、まるで夢をみているような声で言った、心配しなくていい、大佐、この連中はわしを愛しておる。こうした情景は荒野を行く列車のなかだけではなく、河を上り下りする木造の外輪船の上でも繰り返された。
赤道直下の流れの岸のガーデニアと腐ったイモリの死体が発する甘ずっぱい香りに包まれ、自動ピアノのワルツの航跡を残して走る外輪船。それは、ポンコツの車めいた有史以前のドラゴンの群れや、人魚が上がって仔を産むというめでたい島や、消えた都市の廃墟に訪れるたそがれなどを巧みに避けながら進んで、やがて、炎天下に侘しい部落が点在する土地に到着した。その住民たちは、国旗の色で塗り分けられた木造船を見物するために岸に集まったが、大統領の船室の窓で揺れている、誰のものかはっきりしない手とサテンの手袋しか見ることができなかった。しかし大統領のほうは、国旗がわりにニシキイモの葉っぱを振り回している、河岸の人影をちゃんと見ることができた。シチューにして召し上がっていただこうというのだろう、生きたままの野牛や、象の足のように大きいヤマイモや、籠に入れた野生の鶏などを抱えて河に飛びこむ人影を見ることができた。教会の奥のように暗い船室の大統領はすっかり感激して言った、あの連中をみろ、こちらへやって来る、よっぽどわしを愛しているんだ。……(pp.16-17.)


祖国を愛するあの連中に、ぜひ、この姿を見せてやりたい。しかしながら大統領の間近に寄ることのできた連中でさえ、うつけたような目を見ただけだった。権力の辺土でしきりに振られるこの手を、これと言って特徴のない手のひらを見ただけだった。誰のものかはっきりしない手とサテンの手袋しか見ることができなかった。しかし大統領のほうはあの連中をちゃんと見ることができた。閣下は、まるで夢をみているような声で言った。心配しなくていい、大佐、この連中はわしを愛しておる。よっぽどわしを愛しているんだ。
もちろん閣下は祖国を愛するあの連中にしきりに手をふってみせるだけではなく,「至高の権力者であるがゆえの孤独」からさまざまな醜行や愚行をかさねる.「部下や民衆の忠誠を試すという目的のために、かねてから養っておいた替玉を使って頓死を装い、府内に乱入した者たちを虐殺する。もっとも信頼していた将軍が反逆を企んだと知ると、丸焼きにしてパーティーの馳走として供する。宝籤の一等賞の賞金をふところに突っこむためのいかさまに使った二千人の少年たちを爆殺させたあとで、直接手を下した部下たちを銃殺に処する、といったぐあいである」.それは「突き詰めれば、彼自身が死神の迎えの直前に己を省みて悟ったように、生まれながらに愛の能力が欠けていたことに根本的な原因があった」.

彼がそもそもの初めから心得ていたのは、周囲の者たちが歓心を買うために彼を欺いていることだった。媚を売ることによって彼から金を得ていることだった。実際の年齢よりは老けて見えるお偉方を沿道に立って歓呼の声で迎えたり、その長生きを祈る文句を書きつらねたプラカードを持っていたりする群衆が、じつは銃の力を借りて無理やり狩り集められた連中だということだった。しかし、栄光に伴うそうした惨めな経験のすべてを通して、彼は生きるすべを学んだのだった。長い年月の流れるあいだに、虚偽は疑惑よりも快適であり、愛よりも有用であり、真実よりも永続的であることを知ったのだ。権力を持たないのに命令し、栄光を与えられないのに称賛され、権威をそなえていないのに服従されるという、恥ずべき欺妄に達しても、べつに驚きはしなかった。秋の黄葉が舞うなかで、彼が権力のすべてを把握し、その主になることは決してないと悟ったのだ。裏面からしか生を知りえないという運命にあることを、また、現実という迷妄のゴブラン織りの縫い目の謎を解いたり、緯糸を整えたり、経糸の節をほぐしたりする運命にあることを悟ったのだ。
もっとも彼は、もう手遅れだというときになっても、彼にとって生きることが可能な唯一の生は見せかけの生、彼がいるところとは反対の、こちら側からわれわれが見ている生だとは考えもしなかった。われわれ貧しい者たちの住んでいるこちら側では、果てしなく不幸な歳月や、捉えがたい幸福の瞬間が枯葉のように舞っていた。そこでも愛は死の兆しによって穢されていた。しかし、愛は確かにあった。そしてそこでは、閣下自身は、列車の窓の汚れたカーテン越しに見ることのできる、悲しげな目をした曖昧な幻でしかなかった。もの言わぬ唇のおののきでしかなかった。誰のものとも分からぬ手にはめられた手袋を振る、一瞬の挨拶でしかなかった。……(p.228.)

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解説によれば,『族長の秋』では「階級章、錠前、中気病み、燈台、爆竹、等々のイメージを中心にした句が執拗に反復」されており,それは「時間と挿話がともに錯雑した物語の流れに一定のリズムを与えて、多少とも読み易いものにしようという工夫とも考えられる」という.権力の辺土でしきりに振られる手,誰のものかはっきりしない手とサテンの手袋は,のちに誰のものとも分からぬ手にはめられた手袋を振る、一瞬の挨拶としてあらわれるだろう.この反復にかんしていえば,それは物語を読み易くする工夫であるというよりもむしろ夢におけるイメージの反復(あるいは転移)のようであり,それゆえに夢テクストの読解を可能にする結節点の1つのような機能をもつように;反復される語りがまさに夢として成立するための効果をもたらしているように感じる.

【なお,引用した箇所はもともと改行されずに連続しています.読みやすさを考えて改行をくわえましたが,そうすると夢のような印象はやや薄れたように感じます】【夢,テクスト,反復,転移,結節点といった用語はかなりテキトーに使用しております】

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ガルシア = マルケスの著作【ただしアクサンなどの表記は省略】

1955『落葉』 La hojarasca
1955 Isabel viendo llover en Macondo
1961『大佐に手紙は来ない』 El colonel no tiene quien le escriba
1962『ママ・グランデの葬儀』 Los funerales de la Mama Grande
1962『悪い時』 La mala hora
1967『百年の孤独』 Cien anos de soledad
1970『ある遭難者の記録』 Relato de un naufrago
1972『純心なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』 La incredible y triste historia de la candida Erendira y de su abuela desalmada
1973『天使を待呆けさせたニグロ』 El negro que hizo esperar a los angeles
1973 Ojos de perro azul
1975『族長の秋』 El otono del patriarca
1981『予告された殺人の記録』Cronica de una muerte anunciada