舞姫通信

先日の日記(id:somamiti:20060206)で記した『舞姫通信』の読後感にかんして.

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その感想は既視感ゆえのことだとおもう.

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舞姫通信』は自殺にかんする以下のようなスタンスをめぐってのお話である:「人は死ねます。理由がなくても、いつでも、どんなふうにしてでも、人は死ぬことができます」.
それにたいして,典型的な討論番組における反応は,たとえば「君が自殺をしたいっていうんなら、少なくとも僕は認めるよ。好きにすれば? 僕は黙認……いや、黙殺させてもらうから。」と冷ややかなもので,「結局、パネラーはただひとつのことしか言っていない。……。批判ではなく、否定だ。人は死ねるという言葉が発せられたことじたいを認めまいとしているのだ」「とにかく、文句言わずに生きればいいんですよ、人間は」.
‘人は理由がなくても死ぬことができる’という立場表明への反応は,まずは肯定-否定,積極的-消極的の2軸によって分けることができるようだ.たとえば上記の‘死にたいなら死ねば’という旨の反応は否定-消極的と分類できるだろう.積極的に否定のスタンスをとる熱血教師もいる.肯定のスタンスをとるのはもっぱら少年少女(せいぜい20歳代の若者)である.
さらに,「理由がなくても」という条件への肯定-否定を巡って立場はわかれる.この軸を仮に全面的-部分的としよう.否定-積極的のスタンスにたつ教師は自殺企図を反復する自分の娘を「死にたくなるくらい嫌なこと、世の中にはあるよな。わかるよ、俺にだってそれくらい。じゃあ、それを言えばいいんだ。俺がぶっつぶしてやる。……」とかきくどく.【理由のない死を積極的・全面的に否定することは,自殺を部分的に(条件つきで)肯定することの裏面である――と嘯くこともできるだろう.死の理由,死に至る条件,それを把握することは,それを‘ぶっつぶす’ことを可能にする】.一方,娘の気持ちとしては「なんか……もう、生きてなくてもいいかな、って……面倒だから、おしまいにしちゃおうかな、って……」「……気持ちいいんです、死ぬふりしてると。なんか、このままほんとに死んじゃってもいいかな、って……思うんですよね……」といったところであり,その自殺企図に理由はない(すくなくとも明文化しうるような形では).

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なお,この娘はのちに「理由、つくってあげようと思って、いま考えてるんですよ。そうじゃないと、父が、すごくかわいそうだから。」と語っている.これは,自殺企図を試みる人のものとしては違和感を感じる言葉である.‘かわいそうだから理由をつくってあげないと’と慮ることができるかぎりにおいて,その人はしばらくは死から遠いところからいるように感じる.(あるいはまた‘死ぬこともできません’という責を負わされていると考えるべきか).それに先立つ「体がグシャグシャになる死に方って、嫌ですよね。やっぱり、飛び降りって、できないな」「吸血鬼がいればいいのに。体が透き通るくらい血を吸われて死ぬんだけど、傷痕は喉に牙の穴しかないの。そういうのって、なんか、素敵ですよね。」という言葉も上記の違和感の理由となっている.(とはいえ「一ミリの深さで手首を切るのと三センチ切るのとは,実はたいした違いがあるわけじゃなくて……」と作中に語られている,その言葉を裏打ちするように,教師の娘はふたたび発作的な自殺企図をおこなう).

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「死なないでくれ、としか言えないんですよね、人は人に」という主人公のつぶやきは,上記の立場表明への回答と考えられるだろう.彼は祈る:「すれ違うだけの短い「いま」を君と一緒にすごした僕は、君に祈るしかない。君の「いつか」が、ずっと、ずっと遠い日でありますように」.「死なないでくれ」という君への「祈り」をつむぎだす原動機は,いつもながら「愛」である.彼も云う.「でも、ほんとうに愛しているのは、舞姫を愛している君のことなんだ。」
愛.いつまでたってもうんざりするほどかわらないお題目.いくら手垢にまみれていようとも,死ねる,死にたい,死ぬ,そのようなスタンスにたつ人には,最終的には「死なないでください」としか言いようのないように感じる.それは論理も大義名分もない「祈り」のようなもので,祈りのわけを問われれば‘それは「愛」ゆえに’と空虚なお題目を振りかざすほかはないだろう【かどうか,もしかすると他の筋道もあるのかもしれませんが,それでも「愛」というのが理由としてはなんとなくわかりやすい,そのような気分ではあります】.「死なないでくれ」という「祈り」は,そして,生徒たちには差し向けられることなく消えてゆく.【言葉にされてしまえば愛や祈りは風化して空虚になる(なぜなら,それらは媒介物だから)――という気分を主人公もまた有していたのかもしれません】

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「人は理由がなく死ぬことができる」という主張,それにたいして向けられる「死なないでください」という祈り,その応酬はどこか聞き覚えのあるものであった.これが作品にたいして覚えた既視感のなかみである.

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ここまで書いたところで,しかしながら既視感を覚えるような主張や祈り(悩み苦しみ)がなぜ「安っぽい」のか,「チープ」であるのか,そうした問題が置き去りにされていることに気づいた.そもそもの問いから自分が目を背けつづけていたような気分です.

(中断)