シチュー

飽きもせず『舞姫通信』の話から.
理由がなくても人は死ぬことができる.そのような主張は,たとえば「ああゆうのって若い奴らしか理解しないでしょ.幼いんですよね,言っていることが」(p.199)と評される.「俺は理由もなく死ぬのなんて許せない」(p.204)と語る教師は,主人公にたいして「あんたに,教えてもらいたかったんだ.若い連中がどんなふうに,わけのわからないことを考えているのか」(p.205)と問いかける.‘理由がなくても人は死ぬことができる’という主張は若く,幼い.
理由がなくても人は死ぬことはできる.そして,そのような人にたいしては死なないで下さいと祈ることしかできない.そのような叫びと祈りの応酬は既視感をおぼえる,安っぽくてチープなものだ.
これら2つの判断を1つに圧縮しよう:‘理由がなくても人は死ぬことができる’という主張と,それにたいする‘死なないで下さい’と祈りは,若く幼い,既視感をおぼえる安っぽくてチープなやりとりだ.既視感を覚えるのは,それが若く幼いからだ:それらの悩み苦しみを,自らもまた若いころ,幼いころに(よくはわからぬまま)通過したような覚えがあるから既視感を抱く.そして,ちょうど若く幼いころに夢中になった玩具にたいするのとおなじように,それらのことを安っぽくチープだと評価する.理由がなくても人は死ぬことはできる.それにたいする答えはただ‘死なないで下さいと祈ること’しかない――ということは,‘理由がなくても人は死ぬことはできる’という主張を論理や大義名分によって否定することはできなかったということである.あるいはまた「自殺はなぜいけないのか,僕たちはなぜ生きていかなくちゃいけないのか」(p.107)という問いにたいして,生きていくべき理由を示すことができなかったということである.それゆえ,安っぽくチープで若く幼く既視感さえおぼえるこのような問いにたいしては,さしあたっては「とにかく、文句言わずに生きればいいんですよ、人間は」(p.158)と(うんざりした,飽き飽きしたような面持ちで)答えることになるだろう.

      • -

この数年間,ヒトの体のことを勉強している.それによってヒトの体にたいする考え方が大きくかわったようにおもう.たとえるならば暖かいシチュー,あるいはいくつかのチューブのからまった構造物,そうしたものとして人体を思いえがくようになっている.整形外科の講義をうければバネやゼンマイ,ゴムと割り箸というパーツで人体のことを思いえがくのかもしれない.【まるで海のような体液.プカプカと浮ぶ細胞たち】,【血管(それに心臓(ポンプ)と肺(ガスフィルタ)と腎(液体フィルタ)と脾(老廃した血球の処理機構)がからみあう),消化管(口腔-食道-胃-十二指腸-空腸-回腸-結腸-肛門),および消化液を分泌する肝,胆,膵)】.
総じて,人体をモノとして捉えるようになった.もちろん人間の精神もモノの産物である.人間には魂などない.人間には精神などない(笑).もちろん,ここに書かれている言葉に意味などない.すべては脳が見せている幻影なのである.――幻影? おかしなことを云っている.幻影など見る精神など「存在」しない【どのような意味で存在という言葉を使用しているかはさて置こう】.精神など実在しない【実在?】.すべては脳神経系を巡る情報が生み出しているマボロシだ【情報?】.たとえば,人間の言葉は視覚情報や聴覚情報に,ひいては電磁波や空気の疎密波として,またそれらがひき起こす物理的変化の連鎖に還元できるだろう.要素に分解しつくすことができるだろう.と書いているのは皮肉のつもりもありますが,精神や自意識なるものは脳が(‘誰か’に)みせている幻影だ,脳の生み出した錯覚(を‘誰か’がみているの)だという主張は,多分,ただしいだろうとおもいます【幻影や錯覚という比喩があくまで視覚体験によるメタファーである以上,そして「〜〜を感じる」という事態は感覚のメタファーによってしか語り得ないものである以上,上記のようなつっこみは免れようがないわけで,それゆえに上記のつっこみをしつこく繰り返すことは野暮というものなのでしょう】.閑話休題.ヒトの精神もヒトの生命も,畢竟,人体の産物である.細胞のやりとりの産物であり,ひいては物質の産物である.このように思い描くことで,かえって‘生命への畏敬’めいた気持ちを抱くようになったようにおもう.モノのカタマリが細胞であったり生命体であったり,ひいては精神という現象をうみだす基盤となっていることの不思議.
ヒトの体が海のようなシチューであるとして,それはよくできたアツアツのシチューであり,それゆえ器を落とすなどしてシチューを味わえなくなることはもったいないなとおもう.自殺のことを考えていた関連でこのようなことをおもった.

      • -