レトリック認識

第6章
レトリックは伝統的に‘言語表現に《説得力》や《魅力》を与える技術・技法’とみなされてきた.しかし,レトリックには技術・技法とは異なる重要な有効性がある.それはいわば《発見的認識の造形》である――という観点に筆者は立つ.そして本書において,ことばの《あや figure》(《常識的なことばづかいとはいくらかちがった,風変わりな表現形式》の型)から,認識の造形として重要とおもわれる8つの型を選びだし,特異な動きを示す認識の型そのものにかかわる《あや》として,いわば認識の動態をとらえようとする表現の形式として重点的に吟味する.

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本書の第6章の主題は「諷喩 allegory」である.アレゴリーとはいわば‘ひとつの隠喩から次々に同系列の隠喩をくり出し,たとえで話を進める表現形式’である.たとえば,人生を〈旅〉に見立てる隠喩を展開させれば〈日が暮れかけてまだ旅の道は遠い〉というような,人生を語る諷喩が成立する.多くのことわざは諷喩である(なお「隠喩 metaphor」とは‘あるものごとを言いあらわすのに,その名称 X をもちいず,それと類似した異種のものごとの名称 Y をもちいて暗示的に表現する表現形式’である.たとえば〈幕府の犬が町を嗅ぎまわっている〉という表現において名詞〈犬〉と動詞〈嗅ぐ〉は隠喩である).
また夏目漱石は「スヰフトと厭世文学」『文学評論』において諷喩を「或る物を他の物で比喩的に表わす方法,またその物についての出来事の序説(the course of events)を比喩的に他の一組の出来事の序列(another course of events)で表わす方法である」と述べている.ここから諷喩を‘一連のことがらの系列を,別の一連のことがらの系列によってあらわすこと’と考えることができる.諷喩においては‘一方は表現されずに了解され,他方は文字どおり表現されて了解される,二系統の「出来事の序列」’が平行する.筆者は仮に一方を《実話》,他方を《たとえばなし》と呼ぶ.《本名》と《あだな》とが隠喩の関係にあるとすれば,それぞれを展開させた《実話》と《たとえばなし》が諷喩である.

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この,諷喩という表現形式は,たとえば「心」や「原子」などといった分節化して表現(言表,ないし知覚,認識,……)しがたい事態を,《構造化》して認識する手段となる.たとえば以下のような表現がある:

「だいじにしていただいてゐるのは、よくわかりますわ。」
と、波子はおとなしく答へた。心の戸を、半ばあけて、ためらつてゐる感じだつた。あけきつても、竹原ははいつて来ないのかもしれぬ。
川端康成舞姫』)


「心に「戸」はない。にもかかわらず戸の隠喩で語るほかはない心の事態を語りはじめ、その名状しがたい事態をいくらかでも《構造的に》とらえようとすれぱなりゆきで、諷喩による認識ということになる」.
夏目漱石は諷喩をある「出来事の序列」を別の「出来事の序列」で表現すると規定した.この規定はこの諷喩にかんしてはそのままではあてはまらない.この諷喩は《実話》で語りえぬことを《たとえばなし》でかろうじて表現することで成立しているからである:「心の戸」「半ぱあける」「あけきる」「はいつて来ない」というような個々の隠喩に対応する《本名》がない以上,《本名》の序列である《実話》も成立しない.
一方,波子の心には何ごとかが生じているという実態(事実,状態)はある.ただその状態(事実,実態)に見合う《実話》の言述はなりたたないのである:波子の心という事実(状態,実態)について,どこが戸で,どこまでは壁で,どこからが内部で……といった仕切り――構造――は私たちには見えない.それはさしあたって《心》というひとつの全体とでも呼ぶほかはない状態である.
この諷喩による認識を理解するために,諷喩を「ある「出来事の(ことによると混沌とした)状態」――波子の心――を、別の「出来事の(構造化された)序列」――戸のたとえばなし――によって表現してみるこころみ」と規定しよう.諷喩は,「混沌とした状態」を「構造化した序列」として認識・表現する【さらには伝達する】ための手段となりうる.

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「《心について適切に語るためのことばづかいはどのようなものでありうるか》という、この悩みは、現代哲学にとっての基本的問題のひとつでもある(それは理論的な諷喩のありかたをめぐる問題に相違ない)」.
諷喩的な認識(あるいは遊び)は文学的言語に限られない.例えば「分子モデル」は非言語的な諷喩と考えることができる.

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上記の論について,本書の「解説」において池上嘉彦は以下のように述べている:
ここで〈諷喩〉はある「出来事の(ことによると混沌とした)状態」を,別の「出来事の(構造化された)序列」によって表現する試みと説明される.
このように規定された〈諷喩〉は,認知言語学において‘人間による外界の意味づけの営みのもっとも基本的な操作’として措定された「比喩」(Lakoff,G.,Johnson,M."Metaphors We Live By",1980.和訳:『レトリックと人生』大修館書店,1986)と一致する.さらには認知科学における以下のような知見とも一致する:人間は新しい状況と遭遇したとき,既に身につけている「フレーム」により,新しい状況を意味あるまとまりとして捉えようとする.
このことから,レトリックが関わっているのは人間としてのごく基本的な営みであることがわかる.著者(佐藤)が指摘しているように,レトリックによる認識は「ホモ・ルーデンス」である人間によって自己目的的に,「遊び」としてなされることすらある.このことも,それが人間の基本的な営みであることを示しているといえる.

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佐藤信夫さんのレトリック関係の著作:『レトリック感覚』『レトリック認識』『レトリックの記号論』『レトリックの意味論』(いずれも講談社学術文庫版あり)