認識と地平線(KDRV)

今年は『純粋理性批判』を読むことで一年が過ぎたようにおもいます.

我々の認識の一切の可能的対象の総括は,いわば「見かけの」地平圏をもつような一つの平らな表面になぞえらえることができる.そしてかかる地平圏はこの表面の全体を包括していて,さきに無条件的全体性の理念と名づけたところのものに相当する.この無条件的全体性という理念に,経験的に達することは不可能である.またこの理性概念をなんらかの原理に従ってア・プリオリに規定しようと試みたが,かかる試みはすべて失敗に終わった.しかし我々の純粋理性の一切の問題は,この地平線のそとにあるもの,或いは少なくともその限界線上にあるものに関係している.

The sum of all the possible objects of our cognition seems to us to be a level surface, with an apparent horizon――that which forms the limit of its extent, and which has been termd by us the idea of unconditioned totality. To reach this limit by empirical means is impossible, and all attempts to determine it à priori according to a principle, are alike in vain. But all the questions raised by pure reason relate to that which lies beyond this horizon, or, at least, in its boundary line.

純粋理性批判岩波文庫版,下巻,p.58.(B787-788))


「無条件的全体性の理念」とはなにか.
「無条件的」とは‘その〈外〉にある物事によって条件づけられない’ということである.あらゆる経験(認識)は条件【たとえば原因】をもつ.条件の系列はどこまでも遡ることができる【原因の原因,そのまた原因,……】.
「理念 Idee,idea」は(純粋)理性概念とも呼ばれる.理念はいわばプラトンの「イデア」にあたるもので,アリストテレスの「カテゴリー」と同様に可能的経験を成立させる要件であるが,さらに一切の感覚(経験)を超えている(B370)【id:somamiti:20051002】.
あらゆる経験を成立させる条件は,条件の系列の‘果て’にあるといえるだろう【いわば究極の原因,万物の根源としての神】.あるいはまた,経験の条件系列の‘全体’についていえば,その全体は〈外〉の何かによって条件づけられるものではない(でなければ,そもそも条件の系列が完結したことにならない).それゆえ,経験(認識)可能な物事の‘全て’は無条件的である.
「この無条件的全体性という理念に,経験的に達することは不可能である」.私たちが認識できる対象の集まり【集合 set ――というよりも領域 region】を地表面にたとえるなら,そこには地平線 horizon もまたあるように「見える」【いわば無数の消失点(無限遠点)】.しかし地表面をどこまで歩いても地平線に到達することはない.認識可能な領域は地平線によってぐるりと取り囲まれ,それゆえ限られた(完結した)圏域を成しているように「見える」.そこで,その圏域の〈外〉ないし境界線に位置する対象が問われることになる.

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そのような〈外〉や境界線上の対象として,カントは以下のものを挙げている【B391-B392.詳細は長くなりそうなので略】.

純粋理性の概念(超越論的理念)は3種の理念のうちのいずれかに入る.
1)思惟する主観の絶対的(無条件的)統一をふくむもの = 思惟する主観,『私』.いわば心理学の対象.
2)現象の条件の系列の絶対的統一をふくむもの = 一切の現象の総体(世界).いわば宇宙論の対象
3)思惟一般の一切の対象の条件の絶対的統一をふくむもの = あらゆるものを可能にする【万物をあらしめる】第一条件をふくむもの(一切の存在者中の存在者=神.いわば神学の対象

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純粋理性の問いは経験可能な地平の外にあるもの,少なくともその境界線上にあるものにかかわっている.純粋理性の認識は経験可能な領域の「外」あるいは「果て」を目指す.「理性は,その自然的傾向に駆られて経験的使用を超出し,純粋使用によって理念のみを頼りに,一切の認識の究極限界にすら敢えて達しようとする.そして自分の全円を完結し,それ自体だけで存立するような体系的全体を全うし得て,初めてここに安住し得るのである」(B825).しかし,経験による認識【たとえば自然科学】は地球の表面を歩くようなもので,果てしない球面上をどこまでも歩んでゆくことができるだろうが,その認識は地球の「外」にはでることはない;経験の地平の「外」に出て(超越して),その境界線に囲まれた領域を俯瞰することはない.

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こうした地平ないし地球による比喩は,以下の箇所にも用いられている.

我々の理性は、不定に拡がっている平面のごときものではない、――換言すれぱ、その制限がただ一般的にのみ認識されているような平面ではない。むしろ理性は一個の球体に比較されて然るぺきである、即ちその半径は球面上の弧線から(ア・プリオリな綜合的命題の性質から)知られるし、またこの球面に含まれている内容も表面の限界もまたこの弧線によって確実に示されるのである。この球体(経験の領域)のそとには、理性にとって対象となり得るようなものは、何ひとつ存在しない。それどころか、かかる臆測的対象に関する問題すら、この球面内で悟性概念の間に形成せられる関係を完全に規定するような主観的原理〔格律〕に関係するだけである。
(B790)

我々の理性【それによる認識】を批判的に吟味しその領域を画定すること,それが『純粋理性批判』の主題だった【id:somamiti:20051013#p3】.
我々の経験は感覚所与(センスデータ)によって内容を得る.それによって何事かについての経験(認識)が成立する.一方で,その経験は時間や空間(感性の形式),あるいは‘すべての’や‘〜は〜の原因である’といった形式(カテゴリー)によって成立している.これらの形式は経験に先立つ(それがなければそもそも経験がありえない).これらの形式は経験に先立ち(ア・プリオリに)経験のありかたを規定する.
これは数学の公理や推論規則と,そこから導かれる諸々の定理との関係に似ていると感じられる.公理や推論規則は定理に先だつものであり,その公理系において導出可能な定理を規定する.公理と推論規則があたえられてはじめて数学的な命題たちの領域が展開する.そして,たとえば自然数論やユークリッド幾何学における定理は経験可能な世界において真であるような認識をもたらしている.
そこで,ア・プリオリな形式を数学の公理と推論規則に準え,そこから定理を導くようにして世界についての認識を得る試みがなされる.それがすなわち理性による認識である.しかし,理性による認識の領域はいわば「球体」をなす;球体(経験の領域)の外には理性による認識の対象はない.理性による推論によってア・プリオリに導かれた「神」や『私』にかんする憶測は,経験の領域の事象と合致する(総合的な)命題ないし定理ではありえない【ア・プリオリで総合的な命題(判断) → id:somamiti:20051017】.

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