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先日のメモ(id:somamiti:20051225)の続き:デカルトのコギトにおける「無限」,あるいは人の気持ちが「わかる」ことにかんする連想【参照:id:somamiti:20051210】.「無限」も「わかる」ことも経験によっては到達することができない,という発想から.

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たとえば他人の気持ちXが「わかる」(認識する)ということを考える.いま,Aさんの気持ちXを言動(言葉や表情,仕草など)からPであると解釈する.さらに,その解釈をAさんに問いかけ,その解釈が真であることを保証する言葉をもらう:‘私ことAの内面はPです’.これで私はAさんの気持ちがわかったことになるだろうか.Aさんの言葉は真実だろうか.その言葉と事実(心,気持ち)との一致ないし不一致の判定はどのようにして可能だろうか.
2つの対象の一致/不一致を判定するためには,それらを俯瞰する視点が必要だろう.とすればAさんの気持ちを知るためにAさんとは異なる視点にたつ他者Ω【第三者,第三項】が必要だろう.ΩはP(私の解釈やAさんの言葉,私にとって‘表面’にあるもの)とX(Aさんの心,私からは見通すことのできない‘裏面’にあるもの)とを比較し,その一致/不一致を私に教えてくれる.
XとPとの一致/不一致の不確定さに苦しむとき,私は‘第三者’であるBさんにお伺いをたてるかもしれない.‘Aさんは「私の内面XはPです」と私に告げました.このAさんの言葉は真実ですか,Bさん’.しかし,仮にBさんがAさんの言葉が真実であると証明してくれたとして,そのBさんの言葉Qについては,その真実を誰が保証してくれるだろうか【id:somamiti:20051014】.それゆえ第三項Ωは私(その経験や記憶)でも,Bさんのような個別具体的な他人(いわばAさんと等価であるような他人)でもなく,「神」のような,超越的【id:somamiti:20051023#p1】で疑うことのできないモノである必要がある.

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日常において他人の気持ちをどのようにして察しているか.それはリンゴの酸い甘いを識るようなものだ.噛ってみなければわからない.他人の気持ちというものは生身のつき合いを経て「わかる」ものだ【超越的存在Ωがどうしたというのだ.アホらし】.コミュニケーションの経験を積むうちに,表面的な言葉(いわば記述レベルの命題)を超えた‘本当の気持ち’を,メタレベルにあるメッセージを読みとることができるようになる.コミュニケーションは言葉だけによるものではない.我々は非言語的コミュニケーションを自然と用いている.表情や抑揚,‘間’や‘振れ合い’,そうした徴候から他人の気持ちを察している.人間の気持ちは形にされた言葉だけじゃない.そうして私はいわば‘空気を読む’ことによって,日常において他人の気持ちを察しているのだろう.
しかし言葉だろうと空気だろうと,言語的であろうと非言語的であろうと,ある信号を何らかのメッセージとして受信するのであれば,その解コードのために何らかの「辞書」が参照されるだろう.そしてその「辞書」はあくまで「私」のものでしかない.その「辞書」による解読結果Pが本当の気持ちXと一致しているか否か,それは経験によっては知り得ない【言語/非言語という区分を設定することの意義は,非言語的なメッセージをΩからのメッセージとして受けとる余地を残すことにあるのかもしれない】【その「辞書」による私のふるまいが適応的であるか非適応的であるか,私にたいして快を与えるか苦を与えるか,といったことは経験によって判別できるかもしれない.しかし,それはまた別のお話】.

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私は何もわかりえないのか.実験にしろ経験にしろそれは「私」がそのように認識するということで,それは幻覚や妄想の類いかもしれない.それでも首尾よく生きていけるので私は生きてゆくのだろうけれども,それにしたって私は「私」の果てを超えることはできないのか【私はセカイの果てを超えることはできないのか.セカイ系】.このとき,私の「私」が現にあることにおいて,私のセカイ(私の経験の総体)が現に成立していることにおいて,そのセカイに先だつものを,セカイにたいしてア・プリオリなものとして要請される何かを見出すことができれば,そこにおいて私は‘セカイの外’との関係を確保することができるだろう.それがデカルトのコギト(我思う,故に我あり / je pense, donc je suis. / cogito, ego sum.)にとっての「神」ないし「無限」であり,「わからない」という苦しみの背景にある「わかる」という事態であろう.他人の気持ちが「わからない」ということ,X=Pであるか,X≠Pであるかが不確定であること,なによりそれを「苦しむ」ということ(欠如の自覚)から,「わかる」ことの可能性が保証される.