振り返れば

昨年の今ごろ,『僕は勉強ができない』という小説の一節に思うことがあった【id:somamiti:20041113】.テツガク的な思弁をいくら弄したとしても痛みや苦しみには克てない.私の言葉や認識には肉体が先立つ.肉体があってはじめて認識がある.‘私には他人の気持ちがわからない’などといくら嘯いていても,ひとこと‘殴ってやろうか’と云われれるだけで私はすくみ上がることだろう.‘殴られる’‘刺される’ことにより,私はその痛みや苦しみを与えた‘他なるもの’と向きあうことになる.いくら大地を疑ってみても転んで怪我をすれば痛い.モノ的な私.肉体を具えた私.私は否応無しに肉体を与えられている.疑うことは可能でも,それでもリアリティは否定できない.この肉のリアリティにおいて,かえって私は他人のことをわかる(感じる)ことができるかもしれない.そしてまた肉体という他なるもの(あるいは悪しきもの)から解き放たれることを夢みるかもしれない.

一方,‘他者なるものとしての言語’といった考えがある.‘他人の気持ちがわからない’などと私が悩むとき,私は言語を用いている.その言語は私が作り出したものではない.いわば他者から与えられたものだ.――では全く新たに考えだした言語,たとえばソマミチ語によって私が考えるとすればどうだろう(おまけにソマミチ語はまったくオリジナルな言語であり,他の言語には翻訳することはできない).それでも私がソマミチ語を用いて考える(語る,記す,……)とき,その言葉は他者に宛てられたものであるといえるだろう;言語を用いてなにごとかを行なうということそのことが,すでに「私」の外にいる他者を宛てにしている.

「肉」も「言語」も「私」に還元しつくすことはできない何かではある.ただ,他に向けられたものである「言語」は,他から与えられたものである「肉」に比べて,より神的,Ω的だといえるだろう.「言語」によって私は私とは何かであるかを規定する(私は「わからない」,私は「不完全」,など).その言葉をΩからのメッセージとして遇しているからこそ,私はそのような言葉Pを私Xの規定として(X = Pとして)受けとっている【なかなかデンパじみた物言いですが】.

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上記のような連想の根っこには,数年前に講義で耳にした「サピアとウォーフの仮説」という考えがある.それは‘私たちの思考や認識は私たちが用いる言語によって規定されている’というものだ.言語は民族や文化によって異なる.それゆえ民族や文化によって,周囲の世界を認識する枠組み――世界観は異なっている【言語相対主義,というらしいです.うろ覚えですが.なお言語学にかかわる文献を読むとサピア = ウォーフの仮説はけっこう古いもので,今ではさまざまな異論があるようです】.この考えと‘言語は他者である’といったちょっとカッコイイ呪文めいた一節に,幼かった私はすっかりまいってしまった.‘私は言語によって世界を分節化し認識している.しかし私の言語は私が考え出したものではない.言語は他者である.私の認識は他者によって規定されている’.なにやらポストモダンやらニューアカじみた物言いで,1980年ごろの流行を今ごろになって追いかけているようで恥ずかしい.

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相似の殻を頭で割る。
「私」は幼形のままだ。もう成熟はない