境界例と治療者の欲望

境界例境界性人格障害)においてみられる諸現象は,乳幼児が原初的な全能感の喪失を受け入れ主客未分化な二者関係を断念するときに生じる困難の,ある種の再現である.
境界例者の言動の背景には主客未分化な二者関係に立ち戻ろうとする激しい欲望がある.その欲望は巧みな脅しすかしによって他者を依存と支配の関係に組み入れる行動パターン(いわゆる他者操作)としてあらわれる.彼らは他者操作を通じ,あらゆる要求が満たされることではじめて証明されるような究極の愛を求める【それは1+1+1+……という計算を限りなく続けていっても‘無限’には達しない,という事態に等しい背理を含んでいるのだろう】.その追及は必ず挫折をむかえる.そして,それまでの愛や信頼の対象に,あからさまな憎しみがぶつけられる.

このような境界例者に対して治療者はどのようにふるまうべきか.境界例にたいする精神療法のキーワードとして,ウィニコットの holding,ビオンの containing といった技法がしばしば推奨される.患者の言動をむやみに肯定ないし拒絶することなく一度は受容し,保持しながら彼らのまえに‘生き残っていく survive’ことを通じて,彼らの言動の背後にある意味をくみ取り,彼らに返してゆくことができるようになる――という.
これらの技法や態度は重要である.しかし,それらを「いかなる状況でも治療関係を維持すること」「何が起ころうとも(患者の前に)絶対に生き残りつづけること」と解釈し,治療関係を維持するために患者の要求を満たしつづけることは,境界例者のもつ二者関係に立ち戻ろうとする欲望を助長することでかえって悪影響をおよぼす危険性がある.

サールズは,患者を癒す治療者という職業を選択すること自体に,すでに自身の罪責感を和らげようとする無意識的な欲望が作用しているとする.また,治療者は患者が良くなり離れてゆく動きに両価的であり,自分を神のように敬わせ,自らに依存させたいという反治療的な欲望を抱いているが,罪責感はこうした欲望をヴェールに包みながら現実へと導くことになる.さらにサールズは,治療者の罪責感は,つまるところ自身への全能的な期待に由来している.罪責感は全能感の裏返しなのであるとする.
逆転移の背景にある罪責感,ひいては全能感は,治療関係を混乱させる:何があっても患者を受容するという決意は患者の要求のエスカレーションを招くばかりであり,やがて治療者は要求に応えきることができなくなり,治療関係は破綻する.治療者にとっては患者さんのための献身が裏目に出たと感じられるかもしれない.しかし,常日ごろから他者にしがみつこうとしている境界例者にとって,「治療者の全能感に溢れた態度は,明らかに一種の誘惑として受け取られる.治療の名の下に,実は彼らの病理的な欲望の満足を約束し,主客未分化な二者関係を実現させる,と宣言しているように映るのである」.

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参考になりそうな文献
ウィニコット『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版,1977
ウィニコット『遊ぶことと現実』岩崎学術出版,1979
ビオン『精神分析の方法』法政大学出版局,2002
マスターソン『逆転移と精神療法の技法』星和書店,1987
マスターソン,他『パーソナリティ障害の精神療法』星和書店,1997
小此木啓吾フロイトフェレンツィの流れ」『精神分析研究』44,28-36,2000
サールズ『逆転移みすず書房,1991