神の観念と「わかる」こと

デカルトは第三省察における神の存在証明のなかで,無限は有限の否定によって考えられるのではないと述べる.無限者(神)についての認識は有限者(私自身)についての認識よりも先立つものであることを「私は明白に理解する」.このことは以下の(1)-(3)により示される:(1)「私が疑うこと」や「私が欲すること」は,私に何かが欠けていること(私が不完全であること)を示す.(2)私は私が不完全であることを理解する.(3)不完全であることの理解は「完全な存在者の観念」との比較によってのみ可能である.

なおまた、私は無限なものを、真の観念によって認識するのではなく、静止を運動の否定によって考え、闇を光の否定によって考えるように、有限なものの否定によってのみ考えるのだ、などと思ってはならない。というのは、それとは反対に、無限な実体のうちには有限な実体のうちによりも多くの実在性があること、したがって、無限者の認識は有限者の認識よりも、すなわち、神の認識は私自身の認識よりも、ある意味で先なるものとして私のうちにあることを、私は明白に理解するからである。なぜなら、私が疑うこと、私が欲することを私が理解するのは、すなわち、何ものかが私に欠けており、私はまったく完全であるわけではないことを私が理解するのは、より完全な存在者の観念が私のうちにあって、それと比較して私の欠陥を認めるのでなげれぱ、不可能であるから。
(「省察」『世界の名著27 デカルト』,第三省察

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このデカルトの無限(神,完全)と有限(人,不完全)との関係についての認識は,以下に記す悩み(それは離人感などの背景となった)とそこから脱するに至る思考の転換と同型のものであると考える(思考の転換がなされたのち,一過性の高揚状態を経て,離人感等の症状はおおむね消退した).

悩み:「私が本当に欲しているものとはなにか」「他者をほんとうに理解し,他者とわかりあうことなど,本当に可能なのか(他者と合一できない以上――他者の思考や感情や体験をダイレクトに感じることができない以上,それは不可能だ)」「自分は実感を持っていないのではないか,わかったような気になっているだけではないか」「私には現実がわからない.私には自分の感情も他人の気持ちもわからない.私にはいわゆる感情と呼ばれるものがわからない」
思考の転換:「わからないのではないかと不安に思う」ことは「わかりたい」ということである(「わからない」と繰り返し「割り切る」ことそのことがすでに「わかりたい」という願望のあらわれである).そして「わかりたい」という願望や「わからないのではないか」という疑念を抱くことが現状において可能であるからには「わかる」という体験を私は過去にしているはずだ(でなければ「わからない」と感じることすらそもそも不可能だ).現状において,わたしは「わかること」も「わからない」こともできないままに自分を含めた〈世界〉をただ見ている(傍観している).しかしまた,「わからない」という現状と「わからない」という願望が自分のものであることは私は「わかっている」.ならばわたしは「わかる」ことができる.かつて私は「わかる」体験をした.現在も「わかっている」.ならば私には「わかる」可能性がある.

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「(私には)わからない」という悩み(あるいは懐疑)は(私の)不完全性・有限性に,「(何かが)わかる」ということは(神の)完全性・無限性に,それぞれ置き換えることができる.「わからない」という判断は「わかる」ことがどのようなものであるのか,その認識を前提とする.私が有限である(不完全である)という判断は無限(完全)についての認識を前提とする.

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上記の悩みは他人とのかかわりあい【わかりあうこと】を巡る悩みでもあり,それは「周囲の人間がなにかよそよそしい感じ」「人の笑い顔を見ていても空虚に思えてしまい,人のあいだに入り込めない」という感じ,いわば‘独我論的’な感覚をもたらした.
一方,神の存在証明をおこなううえでのデカルトの問題意識は以下のようなものであった.ここには‘独我論的’な考えと,そこから脱しようとする意志を感じる.

もしも,私の有する観念のうち,あるものの表現的実在性がきわめて大きく,その実在性は形相的にも優勝的にも私のうちにはないこと,したがって私自身が当の観念の原因ではありえないことを,私が確信しうるほどであるならば,ここからして必然的に,私ひとりがこの世界にあるのではなく,その観念の原因であるところの,何か他のものもまた存在するということが帰結する,ということである.もし反対に,なんらそのような観念が私のうちに見いだせないならば,私とはちがった何ものかの存在を私に確信させる論証を,私はまったくもたないことになるであろう.


きわめて大きい表現的実在性を持つ観念とはすなわち神の観念である.神(無限,完全)の観念の原因は私自身(有限,不完全(疑うもの))ではありえない.このことを理解することによって,神の観念の原因としての神(私自身ではない何か他のもの)が世界に存在することが確信される.逆に,神の観念のようなものが私のうちに見出せないならば,私以外の何ものかが世界に存在するという確信を私は得ることができない.
【神の存在証明と称されると大時代的なバカバカしさを感じるが,このデカルトの論には緊張感と身近な問題意識を感じる】【神とぼくの壊れた世界】