臨床の知とモナド

先日,音楽療法関連の公開セミナーにて河合隼雄さんの講演を聞いた.講演は‘臨床の知’というテーマにかんするもの.臨床の知とは科学の知の対極にある知である.
科学の知は自然科学や科学技術を成立させる.それは客観的であることを条件とする:科学の知の成立条件は対象(客観,object)と私(主観,subject)とのあいだに関係がないことである.個々の〈私〉とは関係なく成立するからこそ科学は一般性・普遍性をもつ【DSMについての話を連想する】.科学の知の有効性はその一般性・普遍性にある.科学技術は対象が一定の操作(入力)にたいして一定の出力をなすところに成立する.
一方,臨床の知は〈この私〉が対象と関係をもつところにある.臨床の知とは〈この私〉と対象との関係,またその関係が生じる〈場〉をとりあつかう.
〈この私 = 主観 subject〉を内包する関係は,主観を排して客観 object のみをとりあつかうことを旨とする科学の知によってあつかうことはできない.また自らによって動く生き物や意志をもつ個人【すなわち主体性 subjectivity をもつ対象 object―― subjective object,などと表記するとわけがわかりませんね】を,まさに主体性や意志をもつ存在としてとりあつかうことも科学の知にはできない.
臨床の知とは主体性(主観性)をもつモノとしての〈生き物〉や,その〈生き物〉と〈私〉とのかかわりをとりあつかう知なのである.
いまここで私とあなたとのあいだに生じていることはかけがえのない(代替不可能)なできごとである.〈私〉や〈あなた〉という事象は一般的・客観的な要素には還元できない特異的・主観的な性質を含んでいる.また〈いま・ここ〉という〈場〉は宇宙のなかでただ一つの,一回性・特異性をもつ一点にすぎない.そのような〈場〉や関係における出来事を科学の知によってとり扱うことはできない.臨床というフィールドの特徴は,そこに〈私〉が「いる」ことである.たとえばこの講演会場は宇宙に唯一つの場である.いま・ここに私とあなた方が「いる」ということは,これまで二度と起こらなかったし今後二度と起こることはない.そのような唯一の場に〈私〉が「いる」こと,その意義を考えることから臨床の知ははじまる.
【講演で紹介された参考文献:中村雄二郎臨床の知とは何か (岩波新書)』】

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講演の前半部分ではおおよそこのようなことが述べられたとおもう.細部の表現はやや違っているかもしれない.後半部分は音楽療法とからめて表現する perform することと操作する operate することとが対比的に述べられたと記憶している.
講演は意外と楽しめた【食わず嫌いやソマミチ自身の性格の偏倚もあってか,河合隼雄さんにはわけもなく胡散臭さを感じているのですが】.同行者がむしろ批判的だったことにあてられたのかもしれない.臨床の知という用語や殊更にそれを賞揚するかのようなムードは虫が好かないが,すくなくとも臨床の知 / 科学の知という二分法が,それなりに考えられた批判装置であることは確かであるようにおもう【なんだかエラソウな物言い】【ただ「臨床」にせよ「臨床心理」にせよ,そこに「知」や「学」という語を付加するところに違和感や,下世話な話では商売気を感じてしまう】【心の時代とは心に価値がある時代ということで心が売り物になる時代ということか,という言い方はなんとも青臭いがそんな印象もある】.

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講演をききながらライプニッツの「モナド」のことを連想していた.
ライプニッツ(1646-1716)は力学の知識や自らが創案した微積分にもとづき,すべての個物や個体が相互に内在しあっており,動きのなかで形ができる,という世界観を呈示する.たとえば噴水が形を保つのは水の推力による.微分はその1点を切り取り,そこにかかっている力を示す.その1点における力は水道や噴水の装置,水循環システム,太陽系といった宇宙全体の作用により成立したものである.それゆえ噴水における水の1点には宇宙全体が反映されている.このように各々の存在者は宇宙全体をそれぞれの位置から反映する存在,すなわちモナド(単子)である.原子(アトム)が相互に力学的にのみ関係しあうユニットであるのに対して,モナドは相互に反映しあうことによって存在する,宇宙の「生きた鏡」である(「哲学マップ」):「56 ところでこのように,すべての被造物が,おのおのの被造物と,またおのおのの被造物が他のすべての被造物と,結びあい,対応しあっている結果,どの単一実体(モナド)も,さまざまな関係をもっていて,そこに他のすべての実体が表出されている.だから単一実体とは宇宙を映しだしている,永遠の生きた鏡なのである」(ライプニッツモナドジー」)
モナドとは複合体をつくっている単一な実体のことである.単一とは,部分がないという意味である」とされる.訳注によれば「複合体」は物体のこと,一方のモナドは「精神的な意味の単一者」であり全体-部分の関係ではとらえられない( = 部分がない)とされる.精神的な意味での単一者すなわちモナドが複合体としての物体をつくるというのはわけの分からぬ話であるが,訳注によればモナドは「物体を物体をたらしめている統一原理と考えられる」という.そして「複合体が単一体の集合であるとは,無限に分割される各物体が固有の統一原理にささえられていること」であり,「この統一原理が表象と欲求に示され,それが力学の一般原理にもなっている」という.【ではモナドとは,なにか「力」のようなものを指しているのだろうか】

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モナド」といえば「春と修羅 序」のことが連想される.「わたくしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」「すべてがわたくしの中のみんなであるように,みんなのおのおののなかのすべてですから」.
モナド」が不可分かつ単純でありながらそれ自身のうちに全宇宙を表出するというライプニッツの思想に賢治は好感をもっていたらしい.しかし,賢治が「モナド」という語を用いるとき,そこにはライプニッツでは排除されていた物質的・延長的側面も帰属させられているという.「モナド」は賢治において「微粒子」「微塵」「極微」などと言い換えられる.「宇宙に充満した微細な「銀のモナド」は,何よりも賢治の「心象スケッチ」に映った森羅万象,宇宙の姿そのものである」(『自我の哲学史』pp.161-162).

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【中断】