主観と客観

主観 Subjekt,subject,sujet は今日一般には認識(知覚や思考)機能の担い手を意味し,それによって認識される客観 Objekt と対をなす.
Subjekt はラテン語の subiectum,また Objekt はラテン語の obiectum のドイツ語化されたものであり,それぞれギリシア語の hypokeimenon(下に置かれたもの)と antikeimenon(向こう側に置かれたもの)の直訳である.
これらのギリシア語はいずれもアリストテレスの用語である.アリストテレスにおいて,hypokeimenon はさまざまな属性の担い手である「基体」や,さまざな述語の担い手である「主語」を意味する.antikeimenon は『形而上学』においては複数形で「たがいに対立しあうもの」,『デ・アニマ』では単数形で「思考や感覚の働きに対置されるもの」[402b15]という意味で用いられた.しかしアリストテレスにおける hypokeimenon と antikeimenon ,またそのラテン語訳である subiectum と obiectum は,近代初頭にいたるまではとくに対概念をなしていたわけではない.

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hypokeimenon, subiectum は古代から近代初頭に至るまでは一貫して「基体」と「主語」を意味していた.とくに「基体」という意味での subiectum は‘心の外にそれ自体で自存するもの’を意味した.一方,obiectum およびそこから派生した形容詞 obiectivus には意味の変遷がみとめられる.antikeimenon = obiectum はアリストテレスのもとでは「対象」を意味した.それが中世スコラ哲学や近代初頭の哲学では「知性に投影されたもの quod obiicitur intellectui」を意味するようになる.たとえばデカルトスピノザにおいては realitas obiectiva は単に表象されたかぎりでの事象内容(可能的な事象内容)を意味する.それは現実化された事象内容 realitas actualis や,事物そのものの形相(エイドス,イデア)である形相的事象内容 realitas formalis と対比される.つまり「中世から近代初頭にかけては,subiectum がそれ自体で存在する客観的存在者を意味し,obiectum が主観的表象を意味したのである」.
そしてこれらの語はカントあたりで意味が逆転し,Subjekt が「主観」を,Objekt が「客観」を意味することになり,また対をなす概念となる.たとえばカントにおいて objektive Realität は客観として現実化された事象内容を意味する.これはデカルトの realitas objectiva と逆の意味となっている.このような意味の逆転が生じたのはなぜか.

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このような近代の主観 Subjekt 概念の確立の背景には,ロック以降のイギリス経験論における認識論がある.ここで「認識論」とは‘存在の問題を認識問題に還元する’立場である.たとえばロックによれば人間の認識は観念の先までおよばない【心は,観想するために感官あるいは内省の提供した観念をいささかなりと出ないのである.「人間知性論」】.それゆえ真理とは観念相互の一致であり,観念と事物そのものとの一致ではありえない.バークリはこの考えをさらに徹底する.すなわち「存在するとは知覚されること esse is percipi」であり,事物が「存在する」とは一群の観念が「知覚されている」ことであり,観念の背後に想定される「物質的実体」の一切は否定される.
イギリス経験論におけるこうした「認識論」は,デカルトによって準備されたといえる.デカルト形而上学の基盤となる確実で明証的な原理をもとめ,すべての知をいったん疑ってみる.しかしどのように疑いを広げても「すべてを疑う」すなわち「すべてを偽だと考える」ところの「考える私の存在」は疑い得ぬものとして残る.それゆえ「私は考える,故に私は存在する cogito, ergo sum」という命題こそが哲学の第一原理としてふさわしいものであり,この「私」によって明晰・判明に思考されるものだけが真に存在するもである――とデカルトは論じる.このデカルトの考えにおいて,「私」は自然世界の存在を基礎づける「基体 subiectum」となる;「私」がおこなう明晰・判明な思考こそが,世界に何が存在し,何が存在しえないかを基礎づける.
ここで「私」が「基体 subiectum」としての役割を果たすのは,「私」の認識機能による.そして自然世界の成立基盤たる「基体」すなわち「私」は,自然世界内部のものではなく,自然世界を超えた〈形而上学的〉なものであることが要請される.
subjectum を認識機能の「主観」,さらには「それ自体は世界を超越していながらその世界の存在を基礎づける」という意味で「超越論的 transzendental」な主観として読みかえ,それによって認識(表象)されるかぎりの「客観 objectum」だけを存在するものとして認める――この近代以降の〈主観‐客観図式〉の構図は,デカルトによって用意された「認識論」の地平のうえに構築されている.そして,その構築をはじめに行なったのがカントなのである.
(参考:「主観」『岩波哲学・思想事典』)