対象が量か質かの違いではない

数学の認識対象は「量」であり,哲学のそれは「質」である.それが両者の違いだという論者がいるが,その考えは間違っている.数学と哲学のそもそも違いは認識の形式の違いであり,対象の違いはその結果にすぎない.
数学的認識の対象は量 quantity であるのは,構成される(直観においてア・プリオリに現示される)概念が量の概念だけだからだ【?】.
一方,質 quality は経験的直観においてしかプレゼンされない.また質の理性的な認識は概念によってのみ可能である.たとえば実在性という概念にたいする直観は経験によって得られる;ア・プリオリに自分のうちからのみ得るわけにはいかない.

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#【実在性という概念は純粋悟性概念(カテゴリー)の1つである.カテゴリーは悟性 understanding にア・プリオリに含まれる「形式」である.悟性はカテゴリーというア・プリオリな形式によってのみ,直観における多様なものについて何かを理解できる(B106).
しかし一方,カテゴリーに対応する直観は,あくまで経験から得られるものだ.「我々は感性 sense によらなければ直観 intuition をもつことができない」(B92)】.

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経験によらなくても円錐形をその概念によって直観することはできる.しかしその円錐形の色は,なんらかの経験によって与えられなければならない(B743)【円錐形という形は「量」だ,というのだろうか.「円錐形」は形の「性質」をあらわす概念であるようにおもうのだが,それは「底面の半径」や「頂点と底面の距離」などの「量」によって「数量化」できる――という考えがあるのだろうか】.

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哲学的考察は一般的な概念だけによる.数学的考察は概念を直観によって具体的に考察する.哲学でも量は問題にする.たとえば全体,無限などがそうだ.一方,数学でも質をとりあつかうことがある.「空間としての直線と平面の違い」や「延長の連続の研究」などがそうだ.こうしたとき数学と哲学は共通の対象をあつかうことになる.しかしその方法が違う.「数学的考察は概念を直観によって具体的に考察する」.なぜなら「数学的考察は単なる概念だけによるのでは何も得るところが無い」からだ.例:3角形の取り扱い(B744)【略.三角形の内角の和と直角との関係をもとめる課題にたいして,たとえば直線の概念,角の概念,三という数の概念,だけを分析し明確にしていっても得るところはない.これが哲学者のやりかただ.一方,数学者はさっそく三角形を構成してみて(紙に描いてみる,などして)「常に直観に導かれつつこの問題に極めて明白な,それと同時に普遍的に妥当する解決を与える」】.