ラヴクラフトとカント

親近感をおぼえる物事の見方といえば,1920年アメリカの怪奇小説家,H.P.ラヴクラフトのそれを思いだす.【一部の怪奇小説幻想文学マニアからは崇拝的ともいえる評価を受けるとはいえ】その作品は文学とはほど遠い怪奇小説ないしSFといったもので,作品発表の場はもっぱらパルプ・フィクションと称される三文小説【いわばライトノベル】誌であった.
彼の作品にはじめて触れたのは中学から高校にかけてのころだったようにおもう.たしかH.R.ギーガーの手になる表紙に惹かれたのがきっかけで,およそ半年ほどかけて図書館にある全集を読み通したおぼえがある.彼の作品にみられる世界観――というよりも宇宙観,さらにいえば宇宙的な事象と人間の認識能力との関係についての考えは,カントの認識論と近しいものであるように感じる【とはいえ,それは‘無限の神と有限の人’という前提から‘無限の神の真の姿は有限の人間によっては知り得ない’という帰結にいたる不可知論,さらには人間的あるいは地上的な属性記述を否定しつづけることで,人間の理性は無限(定)の神そのものの認識へと限りなく近づいてゆくという否定神学(およびその背景の新プラトン主義)的な認識論の枠組みを共有することによるのかもしれない.閑話休題】.
たとえば,ラブクラフトはある書簡のなかで以下のように記している:

さて,わたしの小説のすべては,人間一般のならわし,主張,感情が広大な宇宙全体においては、何の意味も有効性ももたないという根本的な前提に基づいています。わたしにとって、人間の姿――そして局所的な人間の感情や様態や規範――が、他の世界や他の宇宙に本来備わっているものとして描かれる小説は、幼稚以外の何物でもありません。時間であれ、空間であれ、次元であれ、真の外在性の本質に達するためには、有機生命、善と悪、愛と憎、そして人類と呼ばれるとるにたらぬはかない種族の限定的な属性が、すべて存在するなどということを忘れ去らなけれぱならないのです。人間の性質をおびるものは、人間が見るものや、人間である登場人物だけに限定されなければなりません。
創元推理文庫版『ラヴクラフト全集』5巻,「作品解題」より)

人間的な属性は宇宙において何の意味ももたない.「真の外在性の本質」を描くうえでは,宇宙に人間的な属性が「本来そなわっている」とするような想定を捨てなければならない.「真の外在性の本質」に人間的な属性が本来備わっているとするのは誤りだというラヴクラフトの考え方は,時間・空間や因果法則というのはあくまで人間の認識・経験の前提条件であり,人間にとっての現象はそれらの条件に必ず従うが,だからといって物自体や宇宙自体に時間や空間,因果法則といった性質が備わっていると考えるのは間違っているというカントの考え方と通底するものであるようにおもう.

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なお,「時間であれ、空間であれ、次元であれ、真の外在性の本質に達するためには」という表現からは,ラヴクラフトが〈時間〉や〈空間〉を「真の外在性の本質」とみなしていたことが伺えるかもしれない.しかし,仮にそうであったとしても,そのような〈時間〉や〈空間〉は人間にとっての時間・空間――すなわちユークリッド幾何学の命題がア・プリオリかつ総合的な命題として「真」となるような時空間ではない.そのことを示すと考えられる引用をラヴクラフトの代表作である「クトゥルフの呼び声」から以下に示そう(創元推理文庫版,全集,第2巻より):

「ヨハンセンに未来派絵画の知識があったとは思えぬが、彼がこの石の都について語るところは、あの流派の画家たちが企図したものにきわめて類似していた。事実、手記の記述は個々の石造物を具体的に描いてみせるかわりに、その角度と面との桁はずれの広大さに驚嘆した模様に終始していた。……ぼくが角度と面についての記述をとりあげたのは、その部分を読んでいて、ウィルコックス青年の夢を思い出したからだ。若い彫刻家は怖ろしい夢を説明するにあたって、そこに現われた線と形が全部狂っており、われわれの世界のものとは別個の、非ユークリッド幾何学的な球体と次元を連想させられたと語った。」
「ウィルコックス青年も語っていたが、ここでは幾何学が狂っているのである。実際、海面に目をやっても、それが地表と水平かどうかも確認できず、物と物との相対的位置が幻影のように変化を示すのだった」

【しかし,仮に非ユークリッド幾何学様の現象であろうとも,それは未だ人間の時空間における現れにとどまっている.だからこそ「物と物との位置」や,狂ったといえども「線」や「形」といった形式を適用して語ることができるのだといえよう.それゆえに,「真の外在性の本質」の認識を目指すアプローチは,その極限において(〈痕跡〉としての,いわば‘( )’としての)欠如ないし開口部,すなわち‘大渦巻’や‘あなぐら’へ――すなわち‘名ざしがたきもの The Unspeakable’へと達するのである】

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カントの哲学にせよラヴクラフト怪奇小説にせよ,そこで表明されている,人間の認識やそれによって把握された世界の在り様を自明の前提としない考え方には親近感を感じる.それはまた『純粋理性批判』を読む原動力の1つでもあっただろう.
【私たちが自明の前提としているそれとは異なった認識の枠組みがあるかもしれない.目の前の相手は,そのような枠組みで認識された世界を経験し,そのなかで生きているのかもしれない.声なきところに声を聴く.声の気配を感じる――水鳥が長い首をもたげてあたりを見回している.わたしには何も見えない.何も聴こえない】.