モデルとハード

居場所はあるぞ,私もおまえも.今ここに居るぞ.自分で自分が居ないとは思えないだろう.

      • -

自我は「超越論的仮象」の1つとされる.それは錯視などの「経験的仮象」と異なり,人間の認識能力にとって自然で不可避な‘錯覚’である.
自我が「超越論的仮象」だというのは,人の認識の枠組みでは「自我」を対象そのものの性質とみなさざるを得ない,ということを指しているのだろうか(たとえ頭では「自我」が「思いなし」にすぎない,と考えていたとしても)【そういえば,「超越論的仮象」とされる「自我」とは何を指しているのだろうか】.

  • -

自我など無い.心など無い.なぜなら肉体や脳をばらしていっても心や魂をそこに見つけることはできないから.それらの‘存在’を実験科学的に証明することはできないから――といった主張は,かえって超越論的仮象への囚われのあらわれであるように思える【なお,この主張と「心の作動は脳神経系の活動によって規定される」という主張とはすこし異なるようにもおもう】

          • -

脳科学大事典』序論の「神経科学の体系と方法」によると,脳科学神経科学)は知能のハードウェア(脳神経系の構造と機能,またそこにおける情報表現のありかたなど)を調べる実験的神経科学と,知能の本質をモデル(たとえば情報処理過程)として取り出して理解しようとする理論的神経科学とに大別される.そして「ヒトの知能への挑戦は古代ギリシャの哲学者に始まり……現代の神経科学に至っている」という.本質 = モデルと基盤 = ハードウェアという区分は以下の引用に示すアリストテレスの見解を連想させるもので興味ぶかい.

そして心というのは,……「それによって私たちが生き,感覚し,思惟するもの」であり,したがって一種の定義内容であり形相(エイドス eidos)であって,質料(ヒュレー hyle)すなわち基体ではないことになる.……「実体」は三つの意味で語られる.その一つは形相,もう一つは質料,第三は両者からなるものであり,このうち質料は可能態(デュナミス dynamis)であり,形相は終局態(エンテレケイア entelecheia)である.そして両者から成るものが生物なのだから,物体が心の終局態なのではなく,心が一定の物体の終局態である.そしてまさに,そのために心は物体なしにはありえず,また,心は何らかの物体でもない,と考えた人は正しいのである.すなわち心は物体ではなく物体の何かなのであり,だからこそ物体のうちにそなわり,しかも一定の条件をもつ物体のうちにそなわる.
(『アリストテレス 心とは何か (講談社学術文庫)』pp.81-82("De Anima",414a))