『純粋理性批判』入門

先日(id:somamiti:20051017)に引き続き『純粋理性批判』の入門書からのまとめ書き.
黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』より.

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カントが『純粋理性批判』で追究したのは〈人間は何を知りうるのか〉という問題,人間の認識(経験)についての問題であった.そして『純粋理性批判』でもっとも重要な鍵となるのは以下の記述である(p.27)
「経験の可能性の条件が,同時に,経験の対象の可能性の条件である」【B197】.
この記述の意味は以下のものである:私たちの〈経験〉(認識)が成立する条件,すなわち時間・空間やカテゴリーなどは,同時に,〈経験の対象〉すなわち現象が成立するための条件でもある.認識の成立と,その認識の対象の成立とが同時的であるという点に,カントの認識論の大きな特徴がある(pp.135-136).どういうことか.

常識では,正しい認識は事物の姿を主観を交えずありのままに受けとることと思われている.しかし,認識はあくまで主観的条件のもとで成立している.そして世界を主観による構成物と考えることではじめて客観的認識が成立する(p.105,【B44】【B51】).

まず,人間が存在しようとしまいと,宇宙空間はあって,そのなかに太陽や月が空間的に配置され,さらに時間的形式において運動している――といった考えは間違っている.カントは空間と時間は感性の純粋な形式とする.時間と空間は物そのものが成立するための条件ではない.世界そのものが成立するために時間・空間が不可欠なわけではない.人間は世界を時間・空間という枠組みを通して見ている.そして時間・空間という枠をとおさない世界そのもの(物自体)の様子は人間には知り得ない.すなわち時間・空間は人間の認識が成立するための条件である(pp.103-104).

また,人間がいなくとも時間や空間はあるし,因果関係などは世界そのものについての法則であると考えられている.しかしカントによれば,それらは人間が世界を認識するための〈主観的〉な条件であり,我々の認識を離れてはそれらは〈無〉である.時間・空間や因果関係などのカテゴリーは,人間の認識の成立条件,つまり〈現象〉の成立の条件であって,物そのものの成立条件ではない(pp.134-135).

では人間の〈主観〉にそなわる時間・空間やカテゴリー,人間の認識の〈主観的〉原理が,世界という対象の〈客観的〉なあり方を説明する役に立つのはなぜか;なぜそうした〈主観的〉原理が〈客観的妥当性〉をもつのか.(p.132.関連:B145).
超越論的には時間・空間は現象(表象)の形式であり物自体・世界そのものの性質ではない.しかし経験の次元において,それらの形式は経験に先立ち(ア・プリオリ),個々人の主観とは関係なく確実な,客観的なものとしてすでに成立している(p.107【B158】).
時間・空間,およびカテゴリーによってはじめて成立する対象世界,すなわち現象世界なら,それは人間の認識形態が成立させた世界であり,それについてなら人間はア・プリオリに認識することが可能である(p.136).

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「カントはみずからを、「超越論的には観念論」だが「経験的には実在論」と位置づける。カントによれぱ、最悪なのは、「超越論的には実在論」をとり「経験的には観念論」をとる思想だ、ということになる。つまり、時間・空間は、本来的にそれ自身として存在しているが、経験的場面においては、それは不確かなものである、と考える思想が、カントともっとも敵対することになる」(p.107【B158 超越論的観念論】).
「時間・空間という直観も、カテゴリーという概念(例えば、因果関係)もすべては、〈人間〉の認識に特有なものである。つまり、時空も因果関係も、人間の認識の都合なのであって、世界そのものの成立にそれらが関わっているのではなく、人間認識の成立にそれらが関わっているのである」.
仮に天使や神といった知的存在者を想定した場合,その認識において,時間・空間や因果関係といった条件が用いられることはおそらくない(p.134【B145 神的知性にとってカテゴリーは無意味】).
カントは世界そのもの,すなわち物自体が私たちの認識に従うといっているのではない(p.136).人間の認識形式に従うのはあくまで人間にとっての経験すなわち現象であり,世界の姿である.

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【天使ための〈音楽〉は人間の耳には聴こえない】

id:somamiti:20051019