カントの立場:超越論的哲学

▼超越論的哲学
ア・プリオリなカテゴリーがあってはじめて経験がなりたつ.そして,経験があってはじめて諸物は‘そこにある’(存在する)といえる.諸物,ひいては自然一般は経験によって可能になる.これは,物の存在を暗黙の前提とし,すでに存在するモノを私たちは経験するのだとする日常の想定とは180度異なる(コペルニクス的転回).
カントの哲学はそもそも物や自然,宇宙といった存在者(存在するもの)が存在者として成立する【私たちの経験にあらわれる】ための条件を探求するものである.それは日常を超越した立場から,経験の構造を分析し,論じることである:「カントの哲学は,諸物や宇宙の存在を前提とした上で,それをどうやって認識するかさぐるのではなく,およそ諸物や宇宙などの存在者が存在者として成立するための条件をさぐる哲学となった.これを「超越論的哲学」とよぶ」.
【BXVII コペルニクス的転回 / B25 超越論的認識 = メタ認識】

▼超越論的仮象
経験はいわばカテゴリーという‘メガネ’を通して与えられる.私たちは‘事物そのもの’を知覚し経験するのではない.しかし,かといって経験は「主観的」な「錯覚」ではない.たとえば‘メガネ’を通してみた像が「歪んで」みえるという場合,それが「歪み」「錯覚」といえるのは,それ以外にある「正常な」知覚と比較できるからだ.そしてそのメカニズムは光学的,生理学的に説明可能である.
一方,カテゴリーが適用された経験についていえば,そもそも比較対象としての「それ以外」というものがない.それゆえカントの哲学は,知覚構造にかかわる「心理学的」説明ではなく,経験の構造についての「超越論的」説明となる.
それゆえ経験と無関係に‘そもそものはじめから存在するもの’はない.経験構造と存在は不可分である.そのことから‘神’や‘無限の宇宙’といった仮象が想定される.自我もこうした「超越論的仮象」の1つである.それらは視覚的な錯覚などの「経験的仮象」と異なり,人間の認識能力にとって自然な,不可避の‘錯覚’である.
【B69-70 現象と仮象 / B351-352 経験的仮象と先験的仮象

▼現象と物自体
また,存在が経験によって可能になるという主張は,‘世界は夢にすぎない’‘実体などありはしない’といった主張とイコールではない:カントは‘現れた性質の基礎にあってそれを支える不可視の「実体」’すなわち「物自体」を認める.そして「現象 Erschinung」と「物自体 Ding an sich」を区別する.
私たちに経験される物事は「現象」すなわちカテゴリーによって組織化された感覚与件(センスデータ)である.現象はあくまで私(たち)が目にする物事の姿である.私たちはモノ自体のあり方をじかに観ることはできない;「われわれは物自体について思考はできるけれども,直観はできない.それを直観しうるのは神だけだ」.例えば立方体は12本の辺のすべての長さが等しい立体である.人間にはその12本の辺のすべてを一挙に知覚 or 想像することはできない(それについて思考することはできる.例:数学).それを直観できるのはいわば神のみである.

このような「物自体」と「現象」との区分によって,カントはいわば人間の知の領域を定め,その領域を超え出るような知のありかたを批判する:「霊魂の不死」「神の存在」「世界の全体」などの概念(理念 Idee)を用いた形而上学の命題は,科学的認識の成立する「現象」を超えた「物自体」についての断言でしかなく,学問的認識を構成するものではない.
【B33-34 現象 / B306 現象的存在と可想的存在 / B310 物自体】【【B72 神の直観と人の直観 / B333-334 かかる嘆きは,感官をもたないで経験し,直観しうることを主張する / B511 対象そのものは経験には与えられない.感性の条件に囚われている】【B710 純粋理性の理念 / B673 超越論的理念はいわば鏡の虚焦点】