ヒトガタについて

純粋理性批判のためのメモ(id:somamiti:20051013)を書きつつ考えていたことから.

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「諸物,あるいはひろく自然一般は経験によって可能になることになる.自然があってそれを経験するのではなく,我々の経験によって自然のあり方が決まる」「カントの哲学は,諸物や宇宙の存在を前提とした上で,それをどうやって認識するかさぐるのではなく,およそ諸物や宇宙などの存在者が存在者として成立するための条件をさぐる哲学となった」(哲学マップ,p.84).この箇所を読んでいると「存在」という言葉の意味あいが気にかかる.「存在者が存在者として〈私たちに対して〉成立する」と表記すればより分かりやすい表現になるとおもう.【BXVII-XVIII 経験のあらゆる対象 Gegenstand は悟性概念(カテゴリー)によって規定され,またそれらの概念と一致する】【Gegenstand = gegen 対して stand 立つ】.
「我々の経験によって自然のあり方が決まる」といった考えには違和感を感じる.それは私が諸物の「存在」を暗黙の前提としているからだろう:諸物はまず存在している.そして私たちはその諸物のありのままの姿を感覚・知覚し経験する.そのように考えている【BXVI 私たちは従来,認識はすべて対象に従って規定されるはずだと考えていた】
経験によって自然のあり方が決まる,(経験の構造に基づいて)存在者が存在者として成立する,こうした考えを‘夢みる脳髄と仮想現実としての世界’といった独我論的な世界観と等しいものとみなすことには罠があるだろう【なお,ソマミチ自身はかなり長いあいだこのような理解をしていた】.‘眼の前の世界は実は(私の)夢に過ぎない,仮想現実に過ぎない’――こうした「実は」「過ぎない」という諦念の表明はまた,この見解こそ世界の真実の姿を曝露するものだという自負のあらわれでもある.そして,その背景には一つのヴィジョンが透けてみえる.缶詰のなかの脳髄が見る夢――脳髄に挿しこまれた無数の電極――そのようなヴィジョンだ.この背景には脳と同時に脳の外の世界(モノクロームの刺激電極と色とりどりのコード)が描き込まれている.そうしてフィルムをコマ送りし,夢の内部と外部とを同一の時系列のなかで交互に(継時的に)映し出すことで,さながら映写機(そして観客)だけは夢の世界の‘外’にいるかのような錯覚をうみだす.経験の境界線を超えた場所から録画している.映写している.あるいは語りかける.しかし私にとって私の夢の外など無い.あるいは現実の外など無い.夢と現実は一致している.外に出ることはできない.外など「無い」.

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ふと,id:Gen-eさんと心脳問題めいた話をするなかで聞いたことを連想した.それは「イノセンス」という映画の1シーンのことで,モニタによって映し出された脳が自分の脳であるということをどのようにして確かめることができるのか,といったことだったようにおもう.残念ながら論旨や前後の文脈は忘れてしまった.
思い出そうとして「イノセンス」の公式ページ(http://www.innocence-movie.jp/)を閲覧したところ,「人はなぜ、人形を必要としているのか」という一文が目にとまった.
人形と一口にいっても,そこには顔のある人形,瞳をもつ人形,土偶のような人形,コケシのような人形,手足のある人形,関節をそなえた人形など様々なありかたの人形が含まれるだろう.その位置づけもまた遊び相手,慰みもの,道具,分身,仮面,呪物,ロボットなど,さまざまでありうるだろう.
そしてまた,「人形」を「ヒトガタ」と呼ぶことで連想は飛躍する.人はなぜヒトガタを必要としているのか.ここで連想するのはフロイトの発達論だ――幼少期における精神の組織化の段階として,口唇期,肛門期,男根期という肉体の局部を冠した時期が想定されたということ.人間の精神のマッピングは肉体の構造と無縁ではない.そして「ひとつの」身体を具えたものとしての自分を再帰的に把握するとき,人はヒトガタと無縁ではいられない.口唇期,肛門期,男根期とは,形成されつつある心身がその時期に環境とかかわりをもつ通路 = 開口部ないし特異点と,それによって規定される関係のモードをあらわすための名称である【なお,環境との関わりが形成されるということは,一方では環境との分離がなされるということであろう】.
人がヒトガタを必要とするのは,それが人となる / 人の様であるために不可欠な依り代であるからだ――そのように考える.