あなたを知ることなど

以上の箇所にかかわりがある(かもしれない)夢想.

1)‘拵えもの’をめぐって.
実験・観察によって知られるものと証明されるものについて.自我や心といったモノ・コトはどのように位置づけられるのか.自我や心は‘実在’なのか.どのような意味においてそうなのか.数のように実在するのか【論理的性質の束に還元できない】,動物のように実在するのか.それとも‘ほんとうはそんなものありはしない’のか.「実験・観察」によって知りうるものなのか.そうではないのか【バカバカしい――?】【関連:心脳問題.id:somamiti:20050804】

2)無限をめぐって
無限の【限りなく数多くの? 限りなく大きい?】対象を把握することを考える.たとえば無限 = 神と有限 = 人という2項の比【対比・関係 ratio】.そうした問題の現代的な変奏が,他人の心を把握する行為にまつわる問題であるようにおもう.限りがない内心の詮索.‘本当の気持ち’【あるいは‘ほんとうの自分’】の探求.日常においてはそうした限りがない行為は忘却されるか圧縮されるか打ち切られるか,ともあれ‘ま,こんなところでしょう’と近似的な解にもとづいて行動し,ときと場合に応じて【実験・観察によって得られたデータに基づき】解を修正し,ときには解を導くための式そのものを作り直す ←→ 逆にいえば,近似的な解であると割り切り,その値にもとづいて行為しているのであるが,そこには解そのものが近似的なものにすぎないという不安,さらには近似的な解を得るための式そのものが誤っているかもしれないという不安がつきまというる.

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【以下,思いつくままに】
林檎を囓るたとえがある.林檎の酸い甘いは囓ってみなければ判らない.動物という対象は論理的性質の束には還元できない.目の前の個人もそうだろう.林檎を味わうように,「あなた」を味わってみる――と想定する.しかし,そこで‘味わう’とはどういうことだろう.この「わたし」に「あなた」の思い描くこと【あるいは「あなた」の自我や主観,見聞きしていること,意識していること,……】が直接に与えられるわけではない.目の前のアナタはワタシの想像や思考の産物ではない……ことは確かなのだろうが,そうはいってもそれはワタシの思い描く限りでのアナタだ.
そのような不安を吐露してみれば,ときに優しい声をかけていただけることも,‘わたしはここにいますよ,安心してください’とばかりに触れていただけることもあるだろう(身に余ることです).そのようにしてあなたを在り在りと感じることでわたしは安心したり嫌悪の情を抱いたり,兎も角,アナタをリアルだと感じはするのであるが,それも畢竟,リアリティ――リアルらしさ――でしかない【ここで‘リアルらしさ’いう表現をおこなった.この‘らしさ’という留保は,その比較対象であるところの‘リアルそのもの’についての私の想定を示しているだろう】
‘意味づけが剥奪された世界’を考える.「あなた」だとか「こころ」だとか,そういう意味づけ(あるいは仮装)のヴェールが除去された世界を考える.人間そっくりのロボットたちのなかに一人だけ「わたし = 人間」がいる世界.仮想現実のなかで我一人覚めている状況――そうした想定をする.このとき‘我一人覚めている【「こころ」に値する体験をもつ】’ことをはナニが保証してくれるだろうか.それはどのようにして証明される,あるいは実験・観察されうるだろうか.
【暴力に晒され犯されることを想像する.そうした暴力の彼方には,痛がりで怖がりな私を欲望している確かな他者がいるのではないだろうか.しかし,そうしたシチュエーションにおいて否定できないのはサレテイル私だけで,シテイル彼は機械人形の類いであってもかまわない.――だけれども,サレテイル私は否定できない.(そして,その私をアルキメデスの点として,要求や欲求や欲望の彼方の「彼」を見出すことができる――デカルトのコギトをそのように捉え返すこともできるようにおもう】.