『論理学』ほか(KDRV関連)

【KDRVとあるのは‘Kritik der Reinen Vernunft’すなわち「純粋理性批判」の略】
野矢茂樹『論理学』
▽序論 論理と言語
「論理的に正しい」とはどういうことなのだろうか,それは何と対比された概念なのだろうか.以下の論題を考えてみよう.

論題1 家庭教師で小学生を教えているとしよう.あるとき,あなたが子供に「三角形の内角の和は何度だっけ」と質問すると,その子はさっそくノートに一つの三角形を描き,分度器で測り始めた. (ほうっておけば,まじめな子だから手当たり次第に三角形を1O個ぱかり描いて,いちいち分度器で測定してみるかもしれない.) そしてその子は答える,「この三角形は179度だね」.
――さて,あなたはその子に何と言うか.

‘三角形の内角の和は180度’という性質は「ふつう」の三角形を調べることによって知られたことなのだろうか.クローバは「ふつう」は三枚の葉をもつが,なかには四葉のクローバがある.同様に,三角形の内角の和も「ふつう」は180度だけれども,なかにはそれが179度である三角形もあるのだろうか.そうではない――とすれば,その違いはどこにあるのか.
たとえば,‘三角形の内角の和は180度’は「証明」されうること,「必然的」なこと,そうでない三角形は‘論理的’に「思考不可能」な対象なのだ.一方,クローバの葉の枚数といったものは「実験・観察」されること,「偶然的」なことであり,四葉はおろか五葉のクローバだって「思考可能」なのだ――と区別することもできるだろう.しかし,そもそも「証明」と「実験・観察」の違いとはなにか.
たとえば三角形について,その内角の和が180度でありそれ以外にありえないことを具体的に「証明」してみせたとする.しかし――

しかし,その子供はまったくひるまない.
「じゃあ,どんな三角形を描いてもその内角の和は必ず180度になっているってわけ?」
「そうだよ」
「三角形って全部でいくつあるの?」
「限りなく,無限にあるよ」
「それ全部描いてみたの?」
「そんなことできっこないよ」
「じゃあ,どうしてぜんぷ必ずそうだって分かるのさ」
「だから証明してみせたじゃないか」
「でもこの三角形でしか証明してくれてないよ」

ここで,言葉(言語)という側面に注目しよう.「言葉の意味を述べた辞書のみに基づいて正誤を判断できるものと,かたや観察や実験による事実調査によって真偽を判断するものがありそうである」.「三角形の内角の和は180度である」という主張(命題)は,いわば『ユークリッド幾何学辞典』の各項目に記載された言葉やその意味の含みを引き出すことで推論し「証明」できることだ.一方,「「クローバの葉は三枚である」というのは「クローバ」という語の意味の説明ではない(p.5)」.「実験・観察」によって知られることは『辞書』の記述やそれにもとづく推論には還元できない.
そして,言語使用(とりわけ推論にかかわる言語使用)を問題とする領域が「論理」であり「論理学」だといえる.


▽第3章 パラドクス・形式主義・メタ論理
生物学や化学などの自然科学の成果は論理学の成果に分解・還元することはできない:イヌという対象は「論理的性質の束」ではない.イヌについて知るためには実際のイヌについて実験・観察する必要がある.イヌを論理学に還元することはできない.それゆえ動物という対象を,ひいては動物学を論理学に還元することはできない.
それでは数学はどうだろうか.たとえば三角形という対象の性質は「実験・観察」によって知られるものだろうか.それとも「論理」によって,「証明」によって知られるのだろうか.あるいはまた「1+1=2」といったことをとり扱う自然数論(いわば算術)はどうだろう.「数という対象を論理学に還元することはできるのだろうか」「数とは何か」.
動物学が動物についての科学であるように,自然数論は数についての科学である.数とは【動物のように,あるいは動物とは異なったしかたで】実在する対象であり,論理的性質の束ではない――このように考えるならば自然数論もまた論理学に還元できない.この点において,カントは数学と論理学を峻別する立場に立つ.

――資料 『純粋理性批判』第2版(カント,1787)――
一般論理学は,悟性認識のいっさいの内容とその認識対象の差異とを度外視して,思惟のたんなる形式のみに関わるものである.(p.78)
 ……それゆえ誰であれ.あらかじめ対象について論理学以外の確かな調査を行なった上でなけれぱ,論理学だけから対象を判断したり,対象について何ごとかを主張したりするわけにはいかない.(p.85)
 ……[他方,算術はそうではない.] 7と5を結びつけて考えるだけでは,まだ12という概念を考えたことにはなりはしない.それゆえ,このように二つの数の和の可能性についていくら分析してみたところで,その概念の内には12という数は見出されないのである.……なるほど,7に5を加えねばならないことは,その和,すなわち7+5という概念において考えられている.しかし,その和が12に等しいことは,その概念において考えられているものではない.(p.15)

 しかも数学は,動物学と違って,その内容を経験から得てくるわけではない.ここには,「経験に先立って成立し(アプリオリな),かつ分析だけによっては見出されない実質的内容をもつ(綜合的な)認識」という,きわめて独自の認識の在り方が示されているように思われる.いったい,このような「ア・ブリオリかつ総合的な認識」がいかにして成立しうるのか.これこそが『純粋理性批判』におけるカントの中心問題にほかならなかったのである.

(これにたいして,自然数論(ひいては数学)は論理学に還元可能だとするのがフレーゲの論理主義の立場である:「フレーゲは,カントの手にしていた伝統的論理学【名辞論理学】をはるかにしのぐ論理学体系【述語論理学】を自ら樹立したという自負のもとに,数学をも論理学の領域に含めようとした.論理主義が正しいならぱ,「7+5」という概念を分析すれぱ,「12」という答は導出されてくるはずなのである」.そして,『算術の基礎』(1884)において数を論理的性質の束として定義することに成功したと考えた.……)

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黒崎政男「カント『純粋理性批判』入門」(pp.6-10)
著者(黒崎)とカントとの出会いは「なぜ1+1は2なのだろうか?」という疑問に導かれたものだった.
現代のテクノロジーは膨大複雑な計算のうえに成立している.その計算はいわば「1+1=2」を前提とし基礎としている.わずかでも「1+1」が「2」とずれていたなら(あるいは,その計算結果が自然や宇宙のありようとわずかでもズレていたなら),それに基づく計算,ひいては現代のテクノロジーは成立しない.逆に,現代のテクノロジーが成立していることは,その根底にある「1+1=2」の確からしさを,そうした計算が宇宙の運行とピタリと一致していることを証している.
しかし,そもそも1+1=2のような計算や微分積分のような数学,「これらは人間の頭が考えだした〈発明品〉のように思われるのだが、その人間が〈勝手に〉あみ出した発明品を複雑に駆使した計算の結果が、地球とか月とかといった宇宙の運行になぜぴったり合ってしまうのだろうか」.人類が生まれるはるか以前から宇宙は「人間の都合とはまったく無関係に独自に存在している」というのに.
「人間の頭で勝手に作ったように思われる微積などの数学を使うと、なぜ、宇宙の運行とぴったり合ってしまうのでしょうか?」――この問いを追求してゆくなかで,カントが〈ア・プリオリな総合判断はいかにして可能か〉という問いでこうした問題を考えているらしいことを黒崎は知った.そしてこの問いは,『純粋理性批判』の中核をなす「カテゴリーの演繹論」における,「主観的条件であるカテゴリーがいかにして客観的妥当性を有するか」という中心主題でもあった.(この問いはまた〈存在と知〉をめぐる哲学的テーマの1つであり,プラトンアリストテレスライプニッツヘーゲルといった哲学者がそれぞれの仕方で考えた問題でもあった).

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