形而上学的

先日の日記に‘なぜ純粋理性批判を読んだのか’ということについてメモを記しました.‘自我や心について考えるための手がかりになると感じたから’というのがその答えのようです.

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「そこで自我も,カントによれば「超越論的仮象」とされる」(哲学マップ,p.86).超越論的 = 先験的 transzendental 仮象は‘人間の理性にとって自然な,従ってまたどうしても避けることのできない錯覚である’
【たとえば地平線近くにあるときの月のほうが,どうしたって中天にあるときの月よりも大きく見えてしまうように(このとき,天体としての月の大きさは変化しないと知っていても)】.
ただし「錯覚」という表現はまだ「正常」な知覚を前提としている.一方,「超越論的」な‘錯覚’にはそもそもそれ以外の(正常な)認識や経験がありえない:それは人間にとって経験が可能であるための構造そのものに由来する認識のありかたである.

仮象 Schein = みかけ.超越論的 transzendental = メタ的な,経験の限界を越えた(経験の中身そのものを離れての)(例:超越論的認識 = 私たちが対象を認識する仕方についての認識. → 岩波文庫版,上巻 p.79(p.25),中卷 pp14-16(pp.352-354)】

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以前,遺伝カウンセリングについて学んだことがあった.カントへの関心はそれにも由来する:生命倫理の実践(たとえばインフォームド・コンセント)において重視される「自律の原則」,その背景にはカントが(おもに「実践理性批判」で)展開した自由と倫理についての考えがある.
そしてまた,遺伝カウンセリングの分野にかんして印象に残ったのは,‘遺伝的な病気の原因遺伝子を自分が持っている可能性について診断してもらいたい’という旨で来談した方のなかに,遺伝子診断などの検査を受けないことを選択するケースがあるということ,そしてそうした方々がときに‘(病気にかんする私の運命は)神さまにお任せします’というコメントをなされるということであった.

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「合理論的な知性の濫用が生じるのは,神の存在,人間の自由,霊魂の不死,宇宙の無限性といった,いわゆる形而上学的テーマについて考えはじめるときである」(哲学マップ,p.79).これらのテーマについて思いを巡らせるのはいわば人の性(さが)であるが,しかし,意味のあることを知的に考えることはできない.これらのテーマは知ではなく信仰(あるいは実生活でのふるまい)にかかわる問題である――とカントは言う.

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